清野勉
明治時代の哲学者
清野 勉(きよの つとむ、1853年(嘉永6年)- 1904年(明治37年)3月10日)は、明治時代の哲学者である[1][2]。
経歴・人物
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眼科医だった清野一学の次男として[2]、駿河の上野村に生まれる[2]。実兄の清野勇は大阪医学校︵現在の大阪大学医学部︶校長や知徳高等学校の教師として活動していた[2]。幼少の頃から父より漢学を学び[2]、沼津兵学校に平民出身者でありながら特別入学し洋学を学ぶ[1][2]。1870年︵明治3年︶同学校卒業後[2]、上京して中村正直の門下となり[1][2]、1972年︵明治5年︶には海軍兵学校にて英語教師として勤務した[2]。
後に独立し哲学を研究し始め[1][2]、1887年︵明治20年︶には井上円了と親交を持ち[1][2]、彼が設立した哲学館︵現在の東洋大学︶にて倫理学の教鞭を執った[1][2]。その後1894年︵明治27年︶に真宗大学︵現在の大谷大学︶に転勤した頃[2]、日本の哲学者として初のイマヌエル・カントの哲学の研究に携わり[1][2]、1896年︵明治29年︶にはカント哲学を研究した著書を刊行した[1][2]。その後は哲学用語の訳出等に携わり[2]、翌1897年︵明治30年︶には高山樗牛や木村鷹太郎らと共に﹁大日本協会﹂を設立した[2]。
主な著作物
編集主著
編集その他の著書
編集- 『帰納法論理学』
- 『理学大意』
- 『普通論理学』