無為 (中国哲学)
中国哲学の概念
(無為自然から転送)
道家
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老荘思想には、﹁役に立たないものがかえって役に立つ﹂︵無用の用︶、﹁弱者が強者に勝ち、柔が剛に勝つ﹂︵柔よく剛を制す、弱之勝強柔之勝剛︶といった逆説的な表現が頻出する。その中で﹁何もしないからこそ何でもできる﹂︵無為而無不為︶、﹁無為をする﹂︵為無為︶などとも表現される[7]。無為は、人間や政治の理想的あり方であると同時に、﹁道﹂や﹁天﹂のあり方でもある[3]。
﹃老子﹄と﹃荘子﹄には﹁無為﹂の語が頻出するが、両者の傾向には違いもある[6]。
﹃老子﹄は﹁無為の治︵むいのち︶﹂、すなわち君主が無為であれば国はかえって治まる、という政治思想を説いている。これは後に﹁黄老思想﹂として理論化され、前漢前期に流行した[3]。
﹃荘子﹄は、心の平穏を得た境地を説明する際に﹁無為﹂の語を多く用いている[6][7]。また、包丁名人や蝉採り名人のように、特定の行為を極めた人も無為の境地に至るとされる[6]。
後世の道教では、宗教行為として行うのが困難だったためか、﹁無為﹂が説かれることはあまり無かった[6]。
道家以外
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儒家においても﹁無為の治﹂は理想とされる[8]。孔子は﹃論語﹄衛霊公篇で、名君舜の政治を﹁無為而治﹂と表現している[6][7]。また﹃論語﹄為政篇では、理想的な君主を﹁北辰﹂︵不動の北極星︶にたとえている[6]。儒家の﹁無為の治﹂が具体的にどのような政治を指すかは、後世の儒者によって諸説ある[8][9]。
法家の﹃韓非子﹄は、解老篇などで﹁無為﹂を肯定的に論じている。雑家の﹃淮南子﹄は、道家と法家の影響のもと、万事を﹁法﹂に委ねる政治や、地勢に逆らわない治水、四季に従う農業を﹁無為﹂としている[6]。
以上のように、諸子の多くは﹁無為﹂を肯定的に論じたが、﹃荀子﹄﹃墨子﹄のように﹁無為﹂を否定する諸子も存在した[7]。
中国仏教初期の格義仏教では、﹁ニルヴァーナ︵涅槃︶﹂が﹁無為﹂と漢訳された[6]。以降も﹁アサンスクリタ﹂の訳語として使われている[10]。
明代の新宗教である羅教は、創始者の羅祖が﹁無為居士﹂を名乗ったことから﹁無為教﹂とも呼ばれる[11]。
脚注
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(一)^ 麦谷邦夫、平凡社 改訂新版 世界大百科事典﹃無為﹄ - コトバンク
(二)^ abブリタニカ国際大百科事典 小項目事典﹃無為﹄ - コトバンク
(三)^ abc金谷治 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)﹃無為﹄ - コトバンク
(四)^ 池田知久﹁中国思想史における﹁自然﹂の誕生﹂﹃中国 社会と文化﹄第8号、中国社会文化学会、1993年。 NAID 40004617304。
(五)^ 金谷治﹁無為と因循﹂﹃儒家思想と道家思想 金谷治中国思想論集 中巻﹄平河出版社、1997年︵原著1964年︶。ISBN 978-4892032868。
(六)^ abcdefghi楠山春樹 著﹁無為﹂、坂出祥伸; 山田利明; 福井文雅; 野口鐵郎 編﹃道教事典﹄平河出版社、1994年、566頁。ISBN 9784892032356。
(七)^ abcd池田知久; 渡邉大 著﹁無為﹂、尾崎雄二郎; 竺沙雅章; 戸川芳郎 編﹃中国文化史大事典﹄大修館書店、2013年、1157f頁。ISBN 9784469012842。
(八)^ ab梶田祥嗣﹁儒家における無爲の治 王安石の經書解釋を中心に﹂﹃東洋の思想と宗敎﹄第38号、早稻田大學東洋哲學會、2021年。 NAID 40022548105。
(九)^ 湯浅邦弘﹃貞観政要 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典﹄KADOKAWA︿角川ソフィア文庫﹀、2017年、26-31頁。ISBN 978-4044001742。
(十)^ ﹃有為・無為﹄ - コトバンク
(11)^ 野口鐵郎 著﹁無為教﹂、坂出祥伸; 山田利明; 福井文雅; 野口鐵郎 編﹃道教事典﹄平河出版社、1994年、566f頁。ISBN 9784892032356。