大原高安
奈良時代の皇族、貴族。河内王の子。当初高安王を称するが、大原真人姓を与えられ臣籍降下した。
大原 高安︵おおはら の たかやす︶は、奈良時代の皇族・貴族・歌人。当初高安王を称するが、大原真人姓を与えられ臣籍降下した。敏達天皇の孫である百済王の後裔[1][2][3]。筑紫大宰率・河内王の子[4]。官位は正四位下・衛門督。
大原高安 | |
---|---|
時代 | 奈良時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 天平14年12月19日(743年1月19日) |
改名 | 高安王→大原高安 |
官位 | 正四位下衛門督 |
主君 | 元明天皇→元正天皇→聖武天皇 |
氏族 | 大原真人 |
父母 | 父:河内王 |
兄弟 | 高安、桜井、門部 |
子 | 高田女王 |
経歴
編集
元明朝の和銅6年︵713年︶無位から従五位下に直叙され、元正朝の霊亀3年︵717年︶従五位上となる。その後、紀皇女︵一説では多紀皇女の誤りとする︶との密通を咎められて伊予守に左遷されるが[5]、養老3年︵719年︶按察使が設置されると、阿波・讃岐・土佐の按察使を兼ねている。
左遷を受けながらも、養老5年︵721年︶正五位下、神亀元年︵724年︶正五位上、神亀4年︵727年︶従四位下と、元正朝後半から聖武朝初期にかけて順調に昇進する。聖武朝では摂津大夫・衛門督を務める。神亀6年︵729年︶に発生した長屋王の変以降昇進が止まったが、天平9年︵737年︶に藤原四兄弟が相次いで没すると従四位上に昇叙され、天平12年︵740年︶正四位下に至る。また、この間の天平11年︵739年︶には弟の桜井王・門部王らと共に大原真人姓を与えられ臣籍降下している。天平14年12月︵743年1月︶19日卒去。
人物
編集官歴
編集注記のないものは『続日本紀』による。
系譜
編集脚注
編集
(一)^ ﹃新撰姓氏録﹄左京皇別
(二)^ ﹃本朝皇胤紹運録﹄では長皇子の孫で川内王の子とする。しかし、長皇子の生年は兄・大津皇子の生年︵天智天皇2年︵663年︶︶以降である一方、高安王の生年は初叙の時期より持統天皇7年︵693年︶以前と想定されることから、高安王を長皇子の孫とするのは年代的に不自然である。
(三)^ なお、敏達天皇の皇孫百済王の子孫という意味で、朝鮮半島の百済の王族ということではない。
(四)^ ab田中卓﹁紀皇女をめぐる論争について : 併せて高安王の系譜を論ず﹂﹃万葉﹄第9号、1953年。﹃田中卓著作集 5 : 壬申の乱とその前後﹄︵国書刊行会、1985年︶所収。
(五)^ ﹃万葉集﹄巻12-3098
(六)^ ﹃万葉集﹄巻8,1444,1504
(七)^ 中野[2006: 47]
(八)^ ﹃万葉集﹄巻4-0577
(九)^ ﹃万葉集﹄巻4-0519 大伴女郎歌一首︵今城王之母也今城王後賜大原真人氏也︶
(十)^ ﹃万葉集﹄巻4-0537~0542
参考文献
編集
●中野謙一﹁﹃本朝皇胤紹運録﹄の利用 : 萬葉歌人高安王・市原王の系譜の検討から﹂﹃學習院大學國語國文學會誌﹄第49号、学習院大学、2006年3月。hdl:10959/2184、CRID 1050001202915881216、ISSN 0286-4436
●宇治谷孟﹃続日本紀 ︵上︶﹄講談社︿講談社学術文庫﹀、1992年
●宝賀寿男 編著﹃古代氏族系譜集成﹄上中下、古代氏族研究会、1986年。国立国会図書館書誌ID:000001831027。