瘠我慢の説
内容
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以下、原文の引用[1]を含む。
冒頭で﹁立国は私なり、公にあらざるなり﹂と述べて、国家は必要悪であって忠君愛国の情は私情にすぎないと続ける︵以上から福沢諭吉は古典的自由主義に影響されているといえよう︶。しかしながら、現在の時点では国家は必要であって、たとえ小国であっても忠君愛国の情を持つことは﹁瘠我慢﹂として認める。
そして、勝海舟は講和論者であって、江戸城を開城し、内乱を避けた功績は認めるにしても、幕府に対する﹁瘠我慢﹂の情がなかったと非難する。さらに、王政維新での戊辰戦争に際し、徳川家が薩長に降参して自ら解体するに至ったことは、﹁立国の要素たる瘠我慢の士風を傷︵ な︶うたるの責は免かるべからず﹂と述べて、維新の時に﹁瘠我慢﹂が損なわれたことを非難する。
また、榎本武揚も﹁飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦したれども、ついに窮して降参したる者なり﹂、つまり﹁一旦は幕府を維持するために戦ったにもかかわらず、最期には降参してしまった﹂ため、降参した後に東京に護送されて、新政府に協力したことは感服することではあるものの、やはり﹁瘠我慢﹂の情がなかったと非難する。
特徴
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●本書の特徴は、勝海舟と榎本武揚に対する個人攻撃であるところにある。石河の序文によると、もともと公にする予定はなく、親しい人々の間でのみ写本が渡されていたが、写本が流出したため、石河の要望により﹃時事新報﹄紙上に掲載されることになった。
●福澤諭吉は本書の公表前に、草稿を勝海舟と榎本武揚に送り、意見を求めている。それに対して勝海舟は﹁自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ない﹂として、﹁行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候︵世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬことと考えています︶﹂と返答した。
●他方、榎本武揚は当時外務大臣に就いていたが、﹁多忙につき、そのうち返答する﹂という返事を出した。痩我慢の説は上述の通り1901年︵明治34年︶1月に世間に公表されたが、同年2月に福澤が死去し、榎本は返答しないまま終わった[2]。
●なお、福澤諭吉の友人であり、戊辰戦争にて榎本と行動を共にした大鳥圭介は、個人攻撃の対象とならなかった。
参考文献
編集他の刊行文献
編集脚注
編集- ^ 福沢諭吉 『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』講談社学術文庫、1985年。ISBN 406-1586750
- ^ 『近代日本の万能人・榎本武揚』、藤原書店、2008年。pp. 78-81
関連項目
編集外部リンク
編集- 『明治十年丁丑公論・瘠我慢之説』|デジタルで読む福澤諭吉(慶應義塾大学メディアセンター)
- 『瘠我慢の説』(青空文庫)
- 『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説 福沢諭吉著』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 現代語私訳『瘠我慢の説』