白石正一郎
経歴 編集
文化9年︵1812年︶、長門国赤間関竹崎に萬問屋︵荷受問屋︶小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男︵8代目︶として生まれた。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。
鈴木重胤から国学を学び、重胤の門下生を通じ西郷隆盛が正一郎を訪ね親しくなり、文久元年︵1861年︶には薩摩藩の御用達となった。月照上人、平野国臣、真木保臣らと親しかった経緯から尊皇攘夷の志に強い影響を受けて、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助した。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。
文久3年︵1863年︶6月7日、高杉晋作の奇兵隊結成にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊。51歳の正一郎は奇兵隊の会計方を務める。晋作は正一郎を萩本藩直属にすべく働きかけ、緊急時の人材登用という藩の方針もあり、7月5日、正一郎は士分に取り立てられ、三十人通の家臣となる。支藩の商人から、本藩の家臣へと一躍出世であった。しかし援助を続けた結果、財は底を突き、借金を抱えるようになる。晋作はそれを気にして藩に借財の精算をかけあうが、解決しないまま晋作は死去した。
明治維新後は東京からの誘いを断り、見返りを求めなかった。歌や学問をし、赤間神宮の2代宮司となった。明治13年︵1880年︶、69歳で死去。赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木保臣の次男・真木菊四郎の墓が並ぶ。
西郷隆盛をして﹁温和で清廉、実直な人物である﹂と言わしめた正一郎は、新時代を築き上げる人材を経済面で助け上げたスポンサー的存在であった。
明治24年︵1891年︶、正五位を追贈された[1]。