神埼郡
佐賀県、および肥前国の郡
神埼郡︵かんざきぐん︶は、佐賀県︵肥前国︶の郡。
佐賀県神埼郡の位置︵緑‥吉野ヶ里町 薄黄‥後に他郡に編入された区 域︶
人口16,315人、面積43.99km²、人口密度371人/km²。︵2024年6月1日、推計人口︶
以下の1町を含む。
- 吉野ヶ里町(よしのがりちょう)
郡域
歴史
古代
三根郡は、古くは﹁肥前国風土記﹂[1]﹁和名抄﹂などに見えて、﹁和名抄﹂では﹁加無佐岐﹂と記す。
﹃肥前國風土記﹄の﹁神埼郡﹂[2][3]の条に、
昔、この郡に荒ぶる神がいて、往来する人が多く殺されました。景行天皇が巡行なされた時、ようやくこの神が和らぎました。それ以来、二度と災いは無くなりました[4]。
そのため、神埼の郡とである。﹃肥前國風土記﹄では9郷[1]ですが、三根︵みね︶・船帆︵ふなほ︶・蒲田︵かまだ︶・宮処︵みやこ︶の4郷の記載である。
●三根郷…﹃肥前國風土記﹄[1]で神埼郡三根村を海部直鳥が分郡して三根郡が成立したため、この地が海部直鳥の本拠地であったと思われる。所在地は神崎駅の西の城原川流域と比定。
●船帆郡…在地[1]の諸豪族が、船で景行天皇が巡行なされた時に供奉した場所で、三根郷の南に位置する地域にあった。
●蒲田郡…遺称[1]に蒲田津︵現在の佐賀市蓮池︶があり、城原川が筑後川に合流する地域である。船帆郡のさらに南に位置して、海に面した地域である。
●宮処︵宮所︶郡…景行天皇の行宮の置かれた地であり、神埼市千代田町の西南部地域の比定される。
中世
神崎荘は、836年(承和3年)﹃類聚国史﹄に[3]天皇の命により新たに、690町の土地開発から始まる。皇室領[3]を経て、院領になる。その後は、白河院領[3]から鳥羽院領、後白河院領へと代々継承されています。鳥羽院領の時代には、院司として平忠盛︵平清盛の父︶が神埼荘の預所となり、管理するようになった。その子清盛も同じく預所となった。
1292年(正応5年)﹃河上宮造営用途惣田数注文﹄には肥前國最大の荘園となったことが記され、その範囲は現在の神埼市、吉野ヶ里町、上峰町、みやき町の一部にいたる3000町とも言われている。城原川流域には、神埼荘の櫛田三所大明神といわれる白角折神社、櫛田宮、高志神社がある。
中世の時期[3]には、蒲田郷・中郷・竹村郷・上條郷・倉戸郷・東郷・西郷・土師郷・本告郷・賀﨑郷があったと推定される。
南北朝時代には、北朝の九州探題の一色氏が勢福寺城、横大路城を拠点とした。南朝は、菊池武安が仁比山城、姉川城を拠点としている。
室町・戦国時代には、江上元種が城原に、菊池氏の末裔の姉川惟安が姉川城に、本告頼景が本告牟田、執行兼貞が仁比山に拠点を置いた。四家は、少弐氏に従って享禄3年︵1530年︶、田手畷の戦いで奮戦して大内氏に勝利する。
少弐氏の滅亡後は、四家は大友氏に従う。龍造寺隆信が今山の戦いに勝利した後は、姉川氏、本告氏は従属した。江上氏、執行氏は龍造寺と反目している。
近世
江戸時代に全域が佐賀藩領になり、蓮池藩5万2000石(佐賀藩の内高)のうちの3分の1の所領が当郡内にあった。
近世以降の沿革
知行 | 村数 | 村名 | |
---|---|---|---|
藩領 | 肥前佐賀藩 | 33村 | 迎島村、柳島村、渡瀬村、箱川村、境原村、託田村、下板村、黒井村、姉川村、横武村、本告牟田村、松隈村、石動村、三津村、大曲村、吉田村[5]、豆田村、田手村、的村、城原村、鶴村、尾崎村、本堀村、神埼村、竹村、志波屋村、田道ヶ里、広滝山、腹巻山、鹿路山、杠山、三瀬山、藤原山 |
肥前蓮池藩 | 5村 | 嘉納村、下西村、小松村、見島村、余江村 | |
佐賀藩・蓮池藩 | 5村 | 直鳥村[6]、永歌村、姉村、崎村、古賀村[7] |
●明治4年
●7月14日︵1871年8月29日︶ - 廃藩置県により、藩領が佐賀県︵第1次︶、蓮池県の管轄となる。
●11月14日︵1871年12月25日︶ - 第1次府県統合により伊万里県の管轄となる。
●明治5年5月29日︵1872年7月4日︶ - 佐賀県︵第2次︶の管轄となる。
●明治9年︵1876年︶
●4月18日 - 第2次府県統合により三潴県の管轄となる。
●8月21日 - 長崎県の管轄となる。
●明治11年︵1878年︶10月28日 - 郡区町村編制法の長崎県での施行により、行政区画としての神埼郡が発足。郡役所が神埼村に設置。
●明治16年︵1883年︶5月9日 - 佐賀県︵第3次︶の管轄となる。
町村制以降の沿革
変遷表
自治体の変遷
明治22年以前 | 明治22年4月1日 | 明治22年 - 昭和19年 | 昭和20年 - 昭和34年 | 昭和35年 - 昭和64年 | 平成1年 - 現在 | 現在 |
---|---|---|---|---|---|---|
神埼村 | 明治26年7月1日 町制 |
昭和30年3月31日 神埼町 |
神埼町 | 平成18年3月20日 神埼市 |
神埼市 | |
西郷村 | 西郷村 | |||||
仁比山村 | 仁比山村 | |||||
脊振村 | 脊振村 | 脊振村 | 脊振村 | |||
城田村 | 城田村 | 昭和30年4月1日 千代田村 |
昭和40年4月1日 町制 | |||
境野村 | 境野村 | |||||
千歳村 | 千歳村 | |||||
蓮池村 | 昭和10年11月3日 町制 | |||||
昭和30年4月1日 佐賀市に編入 (蓮池、見島 小松、古賀の一部) |
佐賀市の一部 | 平成17年10月1日 佐賀市の一部 |
佐賀市 | |||
三瀬村 | 三瀬村 | 三瀬村 | 三瀬村 | |||
三田川村 | 三田川村 | 三田川村 | 昭和40年4月1日 町制 |
平成18年3月1日 吉野ヶ里町 |
吉野ヶ里町 | |
東脊振村 | 東脊振村 | 東脊振村 | 東脊振村 |
行政
- 長崎県神埼郡長
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 明治11年(1878年)10月28日 | |||
明治16年(1883年)5月8日 | 佐賀県に移管 |
- 佐賀県神埼郡長
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 明治16年(1883年)5月9日 | |||
大正15年(1926年)6月30日 | 郡役所廃止により、廃官 |
- 神埼郡長を務めた主な人物
脚注
(一)^ abcde﹁角川日本地名大辞典﹂編纂委員会﹃角川日本地名大辞典 41 佐賀県﹄角川書店、1982年、p.237~238
(二)^ 小島瓔礼 校注﹃風土記 ︵角川文庫︶﹄角川書店、1970年、222-223頁。
(三)^ abcde“特集 肥前國風土記にみる神埼”. 神埼デジタルミュージアム﹁かんざき@NAVI﹂. 2022年5月4日閲覧。
(四)^ “櫛田宮沿革”. 櫛田宮. 2022年5月4日閲覧。櫛田宮の社伝によれば、第12代景行天皇が当地方を巡行された折、当時この地に不幸が続いて人民は苦しんでいたが、神を祭りなごめたら、その後は災厄もなくなった。神の幸をうける地というところから﹁神幸︵かむさき︶の里﹂と名付けられ、今は﹁神埼﹂と書いている。
(五)^ 吉田村・目達原村に分かれて記載。
(六)^ 丁大田村︵佐賀藩領︶・直鳥村︵蓮池藩領︶に分かれて記載。
(七)^ 用作村︵佐賀藩領︶・古賀村︵蓮池藩領︶に分かれて記載。
参考文献
●﹁角川日本地名大辞典﹂編纂委員会 編﹃角川日本地名大辞典﹄41佐賀県、角川書店、1982年3月1日。ISBN 4040014103。
●旧高旧領取調帳データベース
●“神埼デジタルミュージアム﹁かんざき@NAVI﹂、”. 神埼市. 2022年5月4日閲覧。
●“櫛田宮”. 櫛田宮. 2022年5月4日閲覧。
関連文献
- 神埼郡郷土誌 上巻 - Google ブックス(神埼郡教育會、1915年)
- 神埼郡郷土誌 下巻 - Google ブックス(神埼郡教育會、1915年)
- 岩崎公弥「近世郷の成立と藩政村 : 肥前国神埼郡の場合」『地理科学』第29巻、地理科学学会、1978年、58-64頁、doi:10.20630/chirikagaku.29.0_58。