文政8年︵1825年︶徳島藩蜂須賀家家老稲田芸植の子として生まれる。弘化4年︵1847年︶父芸植の死去により家督相続。藩主蜂須賀斉裕に仕え、洲本城代を務める。嘉永7年︵1854年︶藩命で海防の為に由良、岩屋に砲台を建設する。安政年間︵1854年 - 1859年︶に南薫風、尾方長栄、工藤剛太郎等家臣を京都に派遣して情勢を探索させた。彼ら稲田家家臣は勤皇の志士と交流し、稲田家は幕末に動皇派として独自の行動をとることとなる。万延元年︵1860年︶8月14日死去。享年36。子の小八郎︵邦植︶は幼いため従兄弟の植誠が養子となって家督を相続した。
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、178-179頁。