笠間益三
明治期の漢学者、官吏、教育者
経歴
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筑後国柳川藩の藩士として生まれる。﹁旧柳川藩志﹂では父は笠間太仲とする。﹁文久・慶応・明治家中変遷﹂では父の笠間太仲は奥州小路の笠間養左衛門の養子で、明治29年︵1896年︶までには広敦と改名し、三池郡手鎌に居住したとされる。
文久元年︵1861年︶に作成され、以降、加筆が行われた﹁侍帳﹂において助教の笠間養左衛門、句讀師から訓導寮頭兼務になっている笠間太仲が見える。文久3年頃︵1863年︶とされる﹁列並諸役人帳﹂に笠間益三の名は見えないが、助教に笠間養左衛門、訓導寮頭兼務に笠間太仲、句讀師に笠間辰之助の名が見える。また、﹁元治元年分限帳﹂︵1864年︶では小姓組に笠間太仲と辰之助の名が見える。
藩校・伝習館に学び、特に漢学に秀でていたために句読師・寮長を歴任し、藩主の命を受け、戸次正三郎、戸次誠之助の3名で江戸に出て慶應3年︵1867年︶11月に昌平黌に入学。
著名な後輩に海老名弾正がいる。昌平黌廃校に伴い、大学校に学び、助教授となる。明治3年︵1870年︶、大学校廃止により慶應義塾に入学し、卒業後の明治5年︵1872年︶9月、兵部省に出仕して陸軍省より﹃日本略史﹄を記し、頼山陽との共著﹃明治新撰日本政記﹄や日本史の教科書を多く記した。明治12年︵1879年︶に神奈川師範学校長となり、明治13年︵1880年︶福岡県立橘中学校長、明治20年︵1887年︶第五高等中学校講師となり、明治24年︵1891年︶3月第五高等学校︵現・熊本大学︶教授。漢詩を多く残している。また﹃鎮西餘響﹄には、﹁秋月悌次郎先生略伝﹂が収められている。