膳夫
概要
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﹁カシハデ﹂とは﹁食器を扱う者﹂の意味で、﹁カシハ﹂︵槲葉︶は古くから酒食を盛る容器とされている[1]。﹁で﹂は﹁手﹂で、﹁それをする人﹂を意味する。あるいは、供応・酒宴などでは柏手を打って膳を催促したから、とも言われている[2]。
﹃周礼﹄﹁天官﹂に、﹁王の食飮、膳羞に掌し、以て王及び后世子を養ふ﹂とある。
﹃古事記﹄の国譲り神話では、大国主神︵おおくにぬしのかみ︶が水戸︵みなと︶の神の孫(ひこ)の櫛八玉神︵くしやたまのかみ︶を﹁膳夫﹂として天の御饗︵みあえ︶を献上する時、櫛八玉神は祝いの言葉を述べ、鵜︵う︶に変身して海の底に入り、底のはに︵=粘土︶をくわえてあがってきて、それで八十ひらか︵=数多くの平たい皿︶を作り、海草の茎を刈り取って燧臼︵火鑚臼、ひきりうす︶に作り、海蓴︵こも、石蓴︶の茎を燧杵︵火鑚杵、ひきりぎね︶に作って、浄火を取り出して歌を詠み、魚料理を献上したとあり[3]、これが日本における最古の記録である。
﹃日本書紀﹄巻第七には、景行天皇の熊襲討伐の際に、的邑︵いくはむら、福岡県浮羽郡︶に辿り着いた際に、﹁膳夫﹂が盞︵うき、酒杯︶を忘れたため、当時の人々はその盞を忘れたところを﹁浮羽﹂と呼び、のちになまって﹁的﹂︵いくは︶となった、という説話が載せられている[4]。
大化前代の制度としては、諸国に膳部が設置され、膳臣に率いられて、天皇・朝廷の食膳に奉仕したという。
膳夫は律令制では宮内省の大膳職︵だいぜんしき︶、内膳司︵ないぜんし︶に所属し、﹃高橋氏文﹄には、料理だけでなく膳夫の装束や祭祀についても記されている。