若宮丸

江戸時代にロシアに漂着した千石船

鹿24800[1][2][3]1793517946[4]161804[2]

若宮丸の漂流

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5112717931229[5]1332400[2][1]1129西[5]

[2]1130[3]121122123124[5]

651017946710姿[5][1]

遭難後の乗組員の足取り

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アリューシャン列島からイルクーツクへ

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[1][6][7]16300西665[5]68[8]

6612151[8]貿[1]1795521812[1][8]

503117959301796341233317971[1][9]

イルクーツクからサンクトペテルブルクへ

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148[4]32使[1][9]

43[9]179942[5]72[10]

1803使4281371067410101146[1][11]

日本への航海

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津田夫らの航海の道程。
 
日本で描かれたレザノフのナジェージダ号。

44使1803842[1][12][1]

2西西西[1][12]3474[1][13]

[1]1961804109[1][14]

412171805117236180545[1]237[14][14][1]42310180549[14]319[1]320[14]

その後

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74調210[6]444[14]2121818062642[1][15]33[14]111814121829[1][6]

31803寿[16]

船員一覧

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表の中で青色で示した人物は死亡もしくは文化9年(1812年)時点での消息がはっきりしていない人物で、赤色で示した人物は帰国を果たした人物である。

役職 氏名 遭難時年齢 出身地 遭難後の足取り
沖船頭
船長
平兵衛 31 牡鹿郡石巻 船主である米沢屋平之丞の息子。寛政6年6月8日(1794年)、アリューシャン列島で病死。享年32歳[6]
楫取
操舵手)
左太夫 51 宮城郡浦戸諸島寒風沢島 イルクーツクからペテルブルクに向かう途中で病のため落伍し、イルクーツクへ引き返した[6]。その後の消息は不明。

(事務長)
儀兵衛(儀平) 32 桃生郡深谷室浜 帰国し、室浜へ帰郷した。帰郷した文化3年(1806年)に没した。享年45歳[6]
船親父
(甲板長)
吉郎次(吉郎治) 67 牡鹿郡小竹浜 寛政11年2月28日(1799年)、イルクーツクで病死。享年73歳[6]
水主
船員
津太夫 49 宮城郡浦戸諸島寒風沢島 帰国し、寒風沢へ帰郷した。文化11年7月29日(1814年)に死没。享年70歳[6]
左平 31 宮城郡浦戸諸島寒風沢島 帰国し、寒風沢へ帰郷した。文政12年4月12日(1829年)に死没。享年67歳[6]
民之助 30 宮城郡浦戸諸島寒風沢島 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名はイヴァン・メイトロヴィチ・キセリョフ[6]。ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世にロシア残留を希望した。その後の消息は不明。
銀三郎 29 宮城郡浦戸諸島寒風沢島 イルクーツクからペテルブルクへ向かう途中、病のためペルミで落伍。イルクーツクへ戻ったか[6]。文化9年(1812年)の時点で、病気で寝たきり状態となっていた。
茂次郎 29 牡鹿郡小竹浜 ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世にロシア残留を希望した。その後、洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名はザハル・ブルダコフか[6]。文化9年(1812年)の時点で、イルクーツクにあった露米会社の事務所で働いていた。
市五郎 29 牡鹿郡石巻 寛政8年10月23日(1796年)、オホーツクからイルクーツクへ向かう途中にヤクーツクで病死。享年32歳[6]
八三郎 25 陸奥国牡鹿郡石巻 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名セミョン・グレゴレヴィチ・キセリョフ[6]。ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世にロシア残留を希望した。その後の消息は不明。
善六 24 牡鹿郡石巻 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名はピョートル・ステファノヴィチ・キセリョフ。寛政8年(1796年)にイルクーツクの日本語学校教師補となり、文化12年(1815年)より正教師。ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世にロシア残留を希望した。レザノフの日本行きに随員として参加したが、ペトロパブロフスクで下船した。文化10年(1813年)にゴローニンの引き受けのためにロシア側の通訳として箱館を訪れた。文化13年(1816年)頃に死没。享年47歳[6]継右衛門中川五郎治などロシアに漂着、連行された日本人の世話もした。
太十郎 23 桃生郡深谷室浜 帰国し室浜へ帰郷した。文化3年4月1日(1806年)に死没。享年36歳[6]
辰蔵 22 宮城郡石浜 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名はアンドレイ・アレクサンドロヴィチ・コンドラトフ[6]。ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世にロシア残留を希望した。文化9年(1812年)の時点で、トムスクの馬車駅で働いていた。
清蔵 不詳 牡鹿郡石巻 イルクーツクからペテルブルクへ向かう途中、病のため落伍し、イルクーツクに引き返した[6]。文化9年(1812年)の時点で、アンガラ川バイカル湖を行き来する船乗りとなっていた。

(船員見習い)
巳之助 21 牡鹿郡石巻 ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に残留を希望した。その後、洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名はミハイル・ジェラロフか[6]。文化9年(1812年)の時点で、アンガラ川とバイカル湖を行き来する船乗りとなっていた。

脚注

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注釈

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(一)^ 

(二)^ 

(三)^ 

(四)^ 鹿

(五)^ 

(六)^ 10281020

出典

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(一)^ abcdefghijklmnopqrs. . 2020719

(二)^ abc 1265

(三)^ /. 2018104

(四)^  1270

(五)^ abcde 1269-270

(六)^ abcdefghijklmnopqr 1265-268

(七)^ 

(八)^ abc 1270-271

(九)^ abc 1271-272

(十)^  1272-274

(11)^  1274-275

(12)^ ab 1275-276

(13)^  1279

(14)^ abcdefg 1276-277

(15)^  1263

(16)^  1277-278

参考文献

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外部リンク

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