菅政友
水戸藩士、医師、歴史家
生涯
編集
水戸藩の医師・正則と広瀬コムの子として、水戸酒門村に生まれる。字︵あざな︶は子干。号は桜廬。名前の菅政友を﹁すがまさとも﹂と訓する資料も多いが、正訓は﹁かんまさすけ﹂である。
会沢正志斎、豊田天功、藤田東湖らの門に入り、天保14年︵1843年︶水戸藩の藩校多賀郡大久保村暇脩館の主事となる。弘化3年︵1846年︶、国事に座して職を免ぜられたが安政元年︵1854年︶復職した。
安政5年︵1858年︶に彰考館員となり文庫役に進むと、明治2年︵1869年︶に栗田寛、津田信存とともに﹃大日本史﹄の編纂に従事する。
維新後の明治6年︵1873年︶には石上神宮大宮司となり、古伝にいう神地から七枝刀や古玉を発掘して考古学に貢献した。
明治10年︵1877年︶から太政官修史館第2局乙科に籍を置いて修史事業に従事。官制の改定に伴い、帝国大学書記となると臨時編年史編纂掛を命じられた。また、重野安繹を領袖とする考証史学の興起にも参加している。考証力に秀でており、﹃日本書紀﹄の紀年と長慶天皇の即位を否定して同じ水戸の史家と対立した。
明治23年︵1890年︶年、職を辞して水戸に隠棲。明治30年︵1897年︶年に没した。享年74歳。水戸酒門村の共同墓地に葬られた。
主な論著は﹃菅政友全集﹄がある。
参考文献
編集- 清水正健『増補水戸の文籍』水戸の学風普及会、1934年。
- 瀬谷義彦『水戸藩郷校の史的研究』山川出版社、1976年12月1日、ISBN 978-4-634-61260-0。
- 国史大辞典編集委員会『国史大辞典』吉川弘文館、1979年3月1日。