董遇
董遇 | |
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魏 大司農 | |
出生 |
生年不詳 司隸弘農郡華陰県(現在の陝西省華陰県) |
死去 | 没年不詳 |
字 | 季直 |
主君 | 曹操→曹丕→曹叡 |
略歴
編集
木訥な性格で、学問を好んだ。後漢の興平年間︵194年-195年︶、兄とともに戦乱を避けて段煨の元に身を寄せた。生活は貧しく、自ら農業や行商で生計を立てたが、常に経書を手放さずに学問を続けた。兄はそんな董遇を笑ったが、董遇は学問を止めなかった。
建安のはじめ︵196年頃︶、孝廉に推挙され、黄門侍郎となった。献帝の侍講となり、親愛された。218年、吉本らが、実権を握る曹操の暗殺を企て誅殺されると、董遇も関与を疑われ左遷された。
曹操が西へ出陣した時、孟津にある弘農王︵少帝、劉弁︶の墓所を通りかかったことがあった。曹操は皇帝陵としての拝謁が必要か判断に迷い、周囲の者に聞いたが答えられなかった。そこで董遇は進み出て、﹁﹃春秋﹄によりますと、君主が即位して次の年を待たずに亡くなった場合、即位を認めません。弘農王は即位して日が浅く、暴臣︵董卓︶によって位を降ろされて藩国におられました。拝謁の必要はありません﹂と答えた。その結果、曹操軍は拝謁せずに素通りした。
魏の黄初元年︵220年︶、曹丕が魏皇帝となると、外地に出て郡太守となった。黄初2年︵221年︶8月付の鍾繇﹁薦季直表﹂は董遇の登用を進言した上奏文だが、これによると董遇は山陽太守となったが辞職して、許で衣食にも事欠く生活を送っていたという。
明帝の代になると中央に呼び戻され、侍中、大司農を歴任した。その後数年して病死した。
子の董綏も学問で名が知られ、魏で秘書監になった。孫の董艾は字を叔智といい、西晋で龍驤将軍となった。八王の乱で斉王・司馬冏の側近となるが、司馬冏が敗れると連座して誅殺された。
学問の逸話
編集はじめ『老子』を研究し、注釈を著した。また『春秋左氏伝』の注釈『朱墨別異』を著した。弟子への教育は、積極的に講義をするのでは無く、「読書百遍義自ずから見る」(どのような難しい書物でも繰り返し読めば、自ずと意味が理解出来るようになる)というのが方針だった。弟子に「生活が苦しくて余裕がありません」といわれると、董遇は「三余を使いなさい」と返した。「冬は1年の余りである。夜は1日の余りである。長雨は時の余りである(この3つを三余という)」と。董遇のこの方針に従う弟子は少なく、著書も詳しい業績も後世に残らなかった。