藤原実方
日本の平安時代中期の貴族・歌人
藤原 実方 | |
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時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 長徳4年12月13日(999年1月3日) |
墓所 | 宮城県名取市北野の中将実方朝臣の墓 |
官位 | 正四位下、左近衛中将 |
主君 | 花山天皇→一条天皇 |
氏族 | 藤原北家小一条流 |
父母 |
父:藤原定時、母:源雅信の娘 養父:藤原済時 |
兄弟 | 実方、実光、鈴木重実室[1] |
子 |
朝元、こそぎみ、賢尋、貞叙、義賢、 菅原定義室、行資(姓不明)室 |
経歴
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父・定時が早逝したため、叔父で大納言・藤原済時の養子となる。
左近衛将監を経て、天禄4年︵973年︶従五位下に叙爵し、天延3年︵975年︶侍従に任ぜられる。その後は、右兵衛権佐・左近衛少将・右近衛中将と武官を歴任する傍らで、天元5年︵982年︶従五位上、永観元年︵983年︶正五位下、寛和2年︵986年︶従四位下と順調に昇進する。
正暦4年︵993年︶従四位上、翌正暦5年︵994年︶には左近衛中将に叙任され公卿の座を目前にするが、長徳元年︵995年︶正月に突然陸奥守に左遷される。同年3月から6月にかけて、養父・済時を始めとして、関白の藤原道隆と道兼の兄弟、左大臣・源重信、大納言・藤原朝光、大納言・藤原道頼ら多数の大官が疫病の流行等により次々と没するが、養父・済時の喪が明けた9月に陸奥国に出発した。なお、赴任の奏上に際して正四位下に叙せられている。
左遷を巡っては、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生[2]。このために実方は天皇の怒りを買い、﹁歌枕を見てまいれ﹂と左遷を命じられたとする逸話がある[3]。しかし、実方の陸奥下向に際して天皇から多大な餞別を受けた事が、当の口論相手の行成の日記﹃権記﹄に克明に記されている事から、左遷とは言えないとの説もある。さらにこの逸話では、口論に際して取り乱さず主殿司に冠を拾わせ事を荒立てなかった行成が、一条天皇に気に入られて蔵人頭に抜擢されたとされるが、実際の任官時期は同年8月29日と実方の任官と8ヶ月も開きがあり、さらにその任官理由は源俊賢の推挙ともされる事から[4]、逸話と事実に不整合がある。これらの事から、後世都人の間に辺境の地で客死した実方への同情があり、このような説話︵後述の死後亡霊となった噂や、雀に転生した話も含め︶の形成に繋がったと考える説がある[5]。
﹃今昔物語集﹄[6]にある、鎮守府将軍・平維茂と藤原諸任との合戦は、実方が陸奥守在任中の事とされる[7]。
長徳4年12月︵999年1月︶任国で実方が馬に乗り笠島道祖神の前を通った時、乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって没した︵名取市愛島に墓がある︶。没時の年齢は40歳ほどだったという。最終官位は陸奥守正四位下。また横浜市戸塚区にも伝墓所︵実方塚︶がある。
当時、陸奥守に期待された職務として宋との貿易決済で用いる砂金を調達して中央に献上する事であった。砂金の未進問題は980年代には深刻になっていたが、実方はその職務を全く果たす事なく急死したため、後任の源満政、更にその次の橘道貞の責任までが追及される事になった。最終的に寛弘5年︵1008年︶になって満政が絹によって実方が残した未進分を補填する事になった[8]。一方、陸奥から朝廷を介して決済用の砂金を受けられなくなった大宰府では代金を受けられなくなった宋の商人らとのトラブル解消に苦慮し、結果的に中央に送る筈であった官物︵あるいはそれで調達した硫黄や材木等の宋側の希望商品︶で決済を行うようになった[9]。
人物
編集逸話
編集官歴
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﹃中古歌仙三十六人伝﹄による。
●天禄3年︵972年︶ 正月24日‥左近衛将監
●天禄4年︵973年︶ 正月7日‥従五位下
●天延3年︵975年︶ 正月26日‥侍従
●天元元年︵978年︶2月2日‥右兵衛権佐
●天元5年︵982年︶ 正月7日‥従五位上。正月10日‥五位蔵人[15]。正月30日‥兼備後介
●永観元年︵983年︶11月20日‥正五位下︵宇佐便労︶
●永観2年︵984年︶2月1日‥左近衛少将
●寛和元年︵985年︶ 正月28日‥兼播磨権介
●寛和2年︵986年︶7月22日‥従四位下︵少将労︶
●寛和3年︵987年︶ 正月20日‥見丹波権守[15]。7月16日‥右馬頭
●正暦2年︵991年︶9月21日‥右近衛中将
●正暦4年︵993年︶ 正月7日‥従四位上
●正暦5年︵994年︶9月8日‥左近衛中将
●正暦6年︵995年︶ 正月13日‥兼陸奥守。9月27日‥正四位下[16]
●長徳4年︵999年︶12月13日‥卒去︵陸奥守正四位下︶
系譜
編集脚注
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(一)^ ab﹃亀井家譜﹄東大史料編纂所蔵
(二)^ 当時は常に︵就寝時、入浴時であっても︶烏帽子や冠など被りものを着けるのがマナーとされ、被り物のない頭を晒すのは大変な恥とされた
(三)^ ﹃古事談﹄による。陸奥国府・多賀城近辺を初め、陸奥に歌枕が多くあるため、﹁歌枕﹂が陸奥の代名詞となっている︵﹃仙台市史﹄通史編2古代中世︶。
(四)^ ﹃大鏡﹄第3巻24
(五)^ 竹鼻績﹃今鏡 (下)﹄講談社学術文庫、1984年、530頁
(六)^ ﹃今昔物語集﹄巻第25第5
(七)^ abc﹃尊卑分脈﹄による。
(八)^ ﹃御堂関白記﹄寛弘5年3月27日条
(九)^ 渡邊誠﹁平安期の貿易決済をめぐる陸奥と大宰府﹂︵初出:﹃九州史学﹄140号︵2005年︶/所収:渡邊﹃平安時代貿易管理制度史の研究﹄、思文閣出版、2012年︶
(十)^ ﹃勅撰作者部類﹄
(11)^ 安積沼。岩代国安積郡(福島県郡山市)にあった沼で、歌枕であった。
(12)^ ﹃今鏡﹄第10 363段、﹃無名抄﹄、﹃和歌童蒙抄﹄等。
(13)^ ﹃枕草子﹄
(14)^ ﹃今鏡﹄第10 364段、﹃古事談﹄第2臣説、﹃十訓抄﹄第8等。
(15)^ ab﹃小右記﹄
(16)^ ﹃権記﹄
(17)^ ﹃後拾遺和歌集﹄雑2-915︵北村[1979: 67]︶
(18)^ ﹃熊野別当系図﹄による。
(19)^ ab熊野別当家は熊野別当職を重代職とすることの正統性を示すため、熊野別当家を貴種に連なる家系であると主張する﹁熊野別当代々次第﹂なる系譜図を作成した。しかし、そうした主張は同時代には受け入れられたわけではなかった︵宮家準﹃熊野修験﹄︿吉川弘文館︵日本歴史叢書︶、1992 ISBN 4642066497﹀、pp.18-19︶。
(20)^ 藤原南家、能登守実房の娘の混入か︵北村[1979: 65]︶