藤原憲房
経歴
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関白・藤原頼通の身近に仕え[1]、その家司的存在であった[2]。長元9年︵1036年︶後一条天皇が崩御すると、その葬儀において棺を担いでいる[3]。また、藤原道長の土御門殿に隣接して父の藤原惟憲が構えていた近衛の邸宅を憲房は伝領していたが[4]、この邸宅は長暦3年︵1039年︶内裏が火災に遭った際に章子内親王が避難し[5]、のちに上東門院︵藤原彰子︶も遷御した[6]。
この間、後一条朝後半に丹後守、後朱雀朝前半に讃岐守と受領を歴任しているが、これは藤原頼通の家司的存在であったことに依るところが大きかったと見られる[7]。しかし、長久元年︵1040年︶讃岐国の貢進物の未済・徴集問題、および、官物徴集を巡った国司・郡司・百姓の対立が太政官に持ち込まれる[8]。結局、後朱雀天皇が不当に高率な官物過徴を理由に国司の交代を判断し、憲房は讃岐守を解任されてしまった[9]。
後冷泉朝の永承6年︵1051年︶皇后・藤原寛子の皇后宮大進に任ぜられると、左衛門権佐を経て、天喜元年︵1053年︶五位蔵人に補せられた。
天喜5年︵1057年︶阿波守に転じると、のち尾張守を務めるなど、後冷泉朝後半から後三条朝初頭にかけて再び受領を務めている。位階は正四位下に至った。
延久5年︵1073年︶10月7日卒去。
官歴
編集系譜
編集注記のないものは『尊卑分脈』による。
脚注
編集参考文献
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●大日方克己﹃諸国公文・財政文書と受領の基礎的研究﹄2012年3月。
●研究代表者 大日方克己﹃諸国公文・財政文書と受領の基礎的研究(平成21年度~平成23年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書)﹄ 研究課題/領域番号 21520673、2012年。 NCID BB10202487。
●野々村ゆかり﹁摂関期における乳母の系譜と歴史的役割﹂︵PDF︶﹃立命館文學﹄第624号、立命館大学人文学会、2012年1月、407-421頁、CRID 1520009408558305408、ISSN 02877015、NAID 110009511582。
●宮崎康充, 遠山久也﹃國司補任﹄続群書類従完成会、1989年。
●市川久編﹃蔵人補任﹄続群書類従完成会、1989年
●﹃尊卑分脈 第二篇﹄吉川弘文館、1987年