西島助義
日本の陸軍軍人
西島 助義 にしじま すけよし | |
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生誕 |
1847年10月11日![]() |
死没 | 1933年2月8日(85歳没) |
所属組織 |
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軍歴 | 1873 - 1911 |
最終階級 | 中将 |
略歴
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1847年、長州藩士の子弟として生まれる。戊辰戦争には分隊長として出征した。
維新後の1873年︵明治6年︶2月、陸軍少尉に任官。1874年︵明治7年︶2月、佐賀の乱では反乱軍の捕虜となる。1893年︵明治26年︶2月、歩兵第11連隊長として日清戦争に出征。1894年︵明治27年︶11月に歩兵大佐、1896年︵明治29年︶12月に歩兵第44連隊長、1897年︵明治30年︶2月に陸軍教導団長、1898年︵明治31年︶3月には陸軍少将に昇進して歩兵第24旅団長、1900年︵明治33年︶1月には台湾守備混成第3旅団長をつとめた。
1902年︵明治35年︶2月、歩兵第7旅団長として日露戦争に出征。南山の戦いや得利寺の戦い、大石橋の戦い、遼陽会戦に参戦する。1904年︵明治37年︶9月には陸軍中将に進み、西寛二郎大将に代って第2師団長として奉天会戦を戦った。
1905年︵明治38年︶5月に勲一等瑞宝章、1906年︵明治39年︶4月には勲一等旭日大綬章を授けられた。同年7月、第6師団長。1907年︵明治40年︶9月21日、日清・日露戦役における軍功により男爵を授けられる。1909年︵明治42年︶9月に休職し、1911年︵明治44年︶9月、後備役に編入となった。1916年︵大正5年︶4月1日に退役した[1]。
1933年︵昭和8年︶2月、死去。享年85。
栄典
編集- 位階
- 1885年(明治18年)7月25日 - 従六位[2]
- 1892年(明治25年)3月28日 - 正六位[3]
- 1895年(明治28年)2月13日 - 従五位[4]
- 1898年(明治31年)4月30日 - 正五位[5]
- 1903年(明治36年)5月30日 - 従四位[6]
- 1905年(明治38年)6月9日 - 正四位[7]
- 1908年(明治41年)7月10日 - 従三位[8]
- 1909年(明治42年)9月20日 - 正三位[9]
- 勲章等
乃木希典についての証言
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●後年、西南戦争後の乃木希典による自殺未遂事件について述べている。戦後、乃木は敵方に軍旗を奪われた不祥事を悔いていたが、ある時、乃木が割腹しようとする場を目撃した西島は、居合わせた児玉源太郎とともに必死に説得して自殺を止めさせた。この事件は3人だけの秘密となったが、明治天皇に殉死した乃木の死後、西島は﹁児玉も既に死したから、今さら秘密にすることはなかろう。﹂として秘話を後世に伝えている[要出典]。
脚注
編集- ^ 『官報』第1115号、大正5年4月22日。
- ^ 『官報』第681号「叙任」1885年10月6日。
- ^ 『官報』第2621号「叙任及辞令」1892年3月29日。
- ^ 『官報』第3485号「叙任及辞令」1895年2月14日。
- ^ 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
- ^ 『官報』第5972号「叙任及辞令」1903年6月1日。
- ^ 『官報』第6582号「叙任及辞令」1905年6月10日。
- ^ 『官報』第7512号「叙任及辞令」1908年7月11日。
- ^ 『官報』第7874号「叙任及辞令」1909年9月21日。
- ^ 『官報』第3273号「叙任及辞令」1894年5月30日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第3900号・付録「辞令」1896年6月30日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
編集- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 西島(助義)家初代 1907年 - 1933年 |
次代 西島助継 |