西鉄軍

かつて存在した日本のプロ野球球団

西鉄軍(にしてつぐん)は、1941年から1943年まで3年間活動した日本プロ野球球団。

西鉄軍
会社名 不明(解散時)
創設 1941年
解散 1943年
所属リーグ
日本野球連盟
歴代チーム名

本拠地

  • 特定本拠地なし(解散時)
収容人員 特定本拠地なしのため不明(解散時)
永久欠番
なし
獲得タイトル
成績(タイトル以外)
球団組織
オーナー 不明(解散時)
運営母体 西日本鉄道(解散時)
監督 石本秀一(解散時)
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1949年に発足し、現在の埼玉西武ライオンズの母体となった「西鉄クリッパース(ライオンズ)」とは球団としての直接の繋がりはない。

球団の歴史

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194123[1][2][1]

1942524[3]2819432西西[2]

[4]西3西西西西11946816[5][6][3]

1943

西1944西19502西西西

退

2[7][8]

西西西

チームの特徴

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19411.335

ユニフォームの変遷

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  • 大洋時代
「大」を模した丸マークの中に「洋」の文字を入れたデザインのものを使用していた。
  • 西鉄時代
左胸に西鉄の社章を入れたものに変更した。

球団旗の変遷

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  • 1941-1942:白地に赤、「大」を模した丸マークの中に「洋」の文字を入れたマーク。
  • 1943:白地に赤、西鉄の社章。

チーム成績・記録

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  • Aクラス・2回(1941年-1942年)
  • Bクラス・1回(1943年)
  • 連続Aクラス入り最長記録・2年連続(1941年-1942年)
  • 連続Bクラス最長記録・1年(1943年)
  • 最多勝 60勝(1942年)
  • 最多敗 39敗(1942年)
  • 最多引き分け 8分け(1943年)
  • 最高勝率 .606(1942年)
  • 最低勝率 .513(1943年)

その他の記録

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  • 最小ゲーム差 12.5ゲーム(1942年、1943年)
  • 最大ゲーム差 15ゲーム(1941年)
  • 最多本塁打 18本(1942年)
  • 最小本塁打 7本(1943年)
  • 最高打率 .198(1943年)
  • 最低打率 .189(1941年)
  • 最高防御率 1.33(1941年)※プロ野球記録
  • 最低防御率 2.21(1943年)

歴代本拠地

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当時はフランチャイズ制が導入されていなかったため、本拠地と言える球場は存在しない。

歴代監督

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※1 ここから西鉄軍

成績

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[4]

年度 監督 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 得点 失点 打率 本塁打 盗塁 防御率 失策
1941 苅田久徳 3 87 47 37 3 .560 15 204 170 .189 9 91 1.33 121
1942 石本秀一 2 105 60 39 6 .606 12.5 238 209 .191 18 63 1.42 156
1943 石本秀一 5 84 39 37 8 .513 12.5 276 236 .198 7 48 2.21 101
  • 各年度の赤太字はNPB歴代最高

脚注・出典

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  1. ^ 日本野球聯盟『日本野球競技記録』17ページ、博文館、1942年9月3日発行
  2. ^ プロ野球の大洋軍が西鉄所属に 昭和18年2月6日 西日本新聞(夕刊)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p714 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  3. ^ 週刊ベースボール1978年7月10日号に於ける<プロ野球なんでも第1号>の90ページ。なお、北海道地方では1942年が最初であり、四国地方では1947年8月9日に徳島西の丸球場で行われた中日ドラゴンズ太陽ロビンス(のち大洋に合併)戦が最初である。(2つとも同じページ)
  4. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」1090ページ

注釈

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(一)^ 

(二)^ DeNA

(三)^ 

(四)^ GI

(五)^ 

(六)^ 

(七)^ 

(八)^ 

関連項目

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