調老人
調老人 | |
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時代 | 飛鳥時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 大宝元年(701年)以前 |
官位 | 正五位下・大学頭、贈正五位上または正四位上 |
主君 | 持統天皇→文武天皇 |
氏族 | 調忌寸 |
出自
編集経歴
編集
持統天皇3年︵689年︶志貴皇子・佐味宿那麻呂・羽田斉・伊余部馬養・大伴手拍・巨勢多益須らと共に﹃善言﹄という書物を編集するための官職である撰善言司に任じられる。この書は南朝宋の范泰の﹃古今善言﹄を模範にした説話集であったらしく、皇族や貴族の修養に役立てようとしたものであった。しかし、この書は刊行されず、のちの﹃日本書紀﹄の資料にされたらしい︵青木和夫︶。
文武天皇4年︵700年︶に大宝律令撰定の功で、刑部親王以下調老人を含む19人が禄を与えられた︵このときの冠位は直広肆︵従五位下相当︶︶。編者の中で最後に名前があがっており、追加補任されたと解釈することもできるが、翌大宝元年︵701年︶8月に正五位上を追贈されていることから、これ以前に没したとも考えられる。
大宝3年︵703年︶律令選定の功績により、下毛野古麻呂・伊吉博徳の2人と伊余部馬養の子息とともに老人の子息にも賜田10町・封戸100戸が与えられ、賜田は子の代まで相続を許されたが、封戸は本人限りとされた。さらに、孝謙朝の天平宝字元年︵757年︶になってから、上記3人とともに子一代に功田10町を下功として伝えらることを許されている[4]。
人物
編集官歴
編集『六国史』による。