趙似
経歴
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元豊6年12月︵西暦で1084年︶に生まれ、元豊7年12月︵西暦で1085年︶に和国公に封ぜられた。元豊8年︵1085年︶4月、兄の哲宗により普寧郡王に封ぜられた。紹聖5年︵1098年︶3月、簡王に進封された。
元符3年︵1100年︶に哲宗が崩じた際、嗣子がなかったので、章惇は哲宗の同母弟の趙似を推薦したが、皇太后向氏が﹁神宗の息子はみな同格、そんな必要があるのか﹂と言って反対した[1]。同年3月、帝位を継いだ兄の徽宗により蔡王に再進封された。
同年9月、徽宗から権力を奪おうとしていると疑惑を持たれ、徽宗に向かって謝罪し、赦免された。崇寧5年︵1106年︶3月、失意のうちに薨去した。大観元年︵1107年︶1月、楚王の位を追贈され、﹁栄憲﹂と諡された。
家族
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靖康の変の後、以下に記されている人物はいずれも金に連行された。
●息子‥趙有恭。永寧郡王に封ぜられた。﹃三朝北盟会編﹄︵1162年完成︶によると、同書の頃まで金で健在であったという。
●息子の正室‥林氏
●息子の側室‥陳氏、羅氏
●3人の孫娘︵趙有恭の息女︶
伝記資料
編集- 『宋史』
- 『宋会要輯稿』
- 『曾公遺録』
脚注
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(一)^ 哲宗の崩御後、皇太后向氏が述べたところによると、哲宗の看病の際、皇太妃朱氏は﹁︵先帝の男子のうち︶似だけが、母︵朱氏︶が腹を痛めた子です。大急ぎで似を帝位に即かせなさいませ﹂と哲宗に求めた。哲宗を臨終まで看護した者はその後、向氏がみな降格させて宮中から追い出しており、この一件には証人がいなかった。