軍忠状
中世日本において、参陣や軍功などを証する書類
軍忠状(ぐんちゅうじょう)とは、中世日本において、参陣や軍功などを証する書類。
概要
編集
中世日本において武士同士の主従関係は、御恩と奉公により成り立っており、主人の軍事行動に当たり家来が手勢を引き連れ参陣し、または戦場において軍功を挙げた場合︵奉公︶、主人はこれに対し、その﹁参陣﹂﹁軍功﹂が単なる私闘・私戦ではなく正当性のある﹁公戦﹂におけるものだと認定し、本領を安堵したり、新領地を恩賞として与えたり︵新恩給与︶すべきものとされていた。そのため、後日の恩賞のため、参陣や軍功の事実を証する必要が生じ、かかる文書が主人名にて発給されることになった。
こうした多くの軍忠状が作成されたのは、戦いが武士の自主性に任せられていたことを物語っているが︵後述書︶、その内容から戦闘の規模が小さく、死傷者が少ないことが判明している[1]。(ただし、軍忠状の内容は基本的には戦勝側の内訳であり、記入対象は士分以上の者のみである[2]。)
14世紀後半となると、各地の武士の手元に残る軍忠状が著しく少なくなり、守護を中心とした新たな秩序が形成される方向が見えてくる[3]。
文書の様式は、まず文書先頭に自分の名前を書き、以下に軍忠の具体的事実を書くことを宣言する︵﹁誰々申軍忠事﹂という文言になることが多い︶。次に軍忠の具体的事実、例えば合戦への従軍・敵に与えた損害・自軍の損害といったことを書く。さらに同所で戦った武将の名前を挙げて、自身の軍忠の証明とする︵具体的に名前を出さない場合もあり︶。そして最後に﹁軍忠認定の証判を賜り、後日︵の恩賞の︶証拠としたい﹂といった旨の文言︵文言は各文書で微妙に異なる︶を記し、﹁以此旨可有御披露候﹂と文章を結ぶ。宛所は﹁進上 御奉行所﹂と書かれることが殆どである。
こうして軍勢の統括者に提出された軍忠状は、内容に問題が無ければ、文書末尾︵先頭の場合もあり︶にその統括者の証判︵花押︶と文書を一読し承諾した旨︵﹁一見了﹂﹁承了﹂﹁無相違﹂などの文言︶が書かれて効力が発生する。
これとは異なり、主人側にて書類を起案・交付するケースもある。
脚注
編集参考文献
編集- 五味文彦 『日本の歴史4 武士の時代』 岩波ジュニア新書 第4刷2003年(1刷2000年) ISBN 4-00-500334-6 pp.139 - 140.p.140に足利尊氏の花押入りの中野家平軍忠状の写真あり。