近藤勇五郎
人物
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武州上石原村︵現‥調布市野水︶に、宮川音五郎︵近藤勇の兄︶の次男として生まれる。天然理心流剣術に入門し、宮川家の道場で稽古した。
文久3年︵1863年︶、近藤勇が浪士組として京都へ出立する際、勇の一人娘・たまの許嫁となる。その後は松井つね︵勇五郎の除籍謄本に﹁東京府麹町区飯田町 士族松井八十五郎長女入籍ス﹂と記述される︶・たまと共に生活していた。
戊辰戦争時、勇処刑の知らせを聞いた勇五郎は板橋で処刑を目撃。すぐさま郷里へ立ち帰り、音五郎と共に勇の遺体を引き取りにいったという。
明治9年︵1876年︶、たまと結婚して剣術道場﹁撥雲館﹂を新設。
明治16年︵1883年︶、長男・久太郎が生まれた。しかしその3年後の明治19年︵1886年︶にたまが死去。国分寺のたよと再婚したが、姑・つねと相性が悪く2年半程で離婚。次にかしと結婚した。
昭和初期、子母澤寛の取材を受けて幕末当時の回顧談を語る。
昭和8年︵1933年︶、死去。享年83。﹁俺が死んでも線香はいらない、ただ、竹刀の音だけは絶やさないようにしてくれ﹂と言い遺した。
天然理心流剣術6代目は桜井義則、7代目は近藤新吉︵勇五郎の次男、後妻の子︶が継いだ。新吉は警視庁の剣道助手も務めたが、昭和11年︵1936年︶早世した。
参考文献
編集- 『月刊剣道日本』1978年9月号 特集天然理心流と近藤勇、スキージャーナル