錫良
錫良︵しゃくりょう、シリャン、満洲語: ᠰᡳᠯᡳᠶᠠᠩ[1]、転写‥siliyang︶は清末の政治家。総督などの地方官を歴任した人物で、特に西南部と東北部において、政治・軍事・産業の近代化の基盤を築き上げた。姓はバヨト氏︵Bayot hala、巴岳特氏︶。字は清弼。モンゴル人。蒙古鑲藍旗の人。
錫良 | |
---|---|
![]() | |
プロフィール | |
出生: | 1853年 |
死去: | 1917年 |
出身地: |
![]() |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 錫良 |
簡体字: | 锡良 |
拼音: | Xīliáng |
注音二式: | Shīliáng |
和名表記: | しゃくりょう |
発音転記: | シーリャン |
事跡
編集
光緒元年︵1874年︶、甲戌科進士となる。各地の知県・知州・知府・道員を歴任した後、光緒24年︵1898年︶、山西按察使となる。翌年、湖南布政使に遷る。同年9月に湖南巡撫、光緒26年︵1900年︶に山西巡撫、翌年に湖北巡撫︵赴任せず︶と歴任した。同年5月、東河河道総督に遷り、光緒28年︵1902年︶2月、河南巡撫となり、同年5月、熱河都統となった。
光緒29年︵1903年︶4月、署四川総督に昇進し、翌年に正式に四川総督に任命された。光緒33年︵1907年︶2月に雲貴総督に遷った。宣統元年︵1909年︶2月、欽差大臣に任命され、さらに東三省総督兼管三省将軍事に遷った。翌年、他省の総督・巡撫らと共に、内閣の組織、国会の開設を清朝中央に電文で要請した。宣統3年︵1911年︶4月、病により辞任、休養した。同年11月、再び熱河都統に任じられたが、民国元年︵1912年︶1月、辞任した。総督として任じられていた間に、錫良は各任地で政務に辣腕を振るい、政治・軍事・産業の近代化の基盤を築き上げ、民国以後にも影響を与えた。
民国6年︵1917年︶、病没。享年65。
脚注
編集参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典』河北人民出版社、1991年
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|