長尾義連
明治時代から大正時代の政治家
長尾義連 ながお よしつら | |
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生年月日 | 1848年1月18日 |
没年月日 | 1928年 |
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在任期間 |
1890年6月 - 1891年4月 1896年11月7日 - 1905年4月 1914年3月20日 - 1918年3月 |
経歴
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弘前藩士長尾定八の長男として生まれ、1873年︵明治6年︶9月に家督を相続する[1]。明治に入り、戸長や北津軽郡長を歴任し、1888年︵明治21年︶青森県会議員に当選する[2]。翌年の1889年︵明治22年︶弘前市助役の時に菊池九郎市長の辞任に伴い第2代市長に当選するが、後任の助役選出による派閥争いで市会は紛糾し、翌年辞任した[2]。
1896年︵明治29年︶赤石行三市長の病死に伴い、菊池九郎の推薦により市長に返り咲き、1902年︵明治35年︶再選し、1905年︵明治38年︶まで務めた[3]。この間、弘前市立病院を開院した[4]。これは、第8師団の設立した同仁病院を市会議員の竹内儀三郎が継いで経営していた博愛病院があったが、経営不振を理由に市への寄付の申し出がありこれを受けたものであった[4]。のち1914年︵大正3年︶3月にも市長に当選し[5][注1]、通算13年半務めた[4]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『青森県人名事典』473頁では大正8年としているが誤り。
出典
編集- ^ a b 人事興信所 1903, 602頁.
- ^ a b c 東奥日報社 2002, 472頁.
- ^ 東奥日報社 2002, 472-473頁.
- ^ a b c 東奥日報社 2002, 473頁.
- ^ 『官報』第492号、大正3年3月23日。