鶴見橋 (広島市)
広島市の橋
鶴見橋(つるみばし)は、広島県広島市の京橋川に架かる道路橋。
鶴見橋 | |
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下流から橋を望む 欄干(東詰) | |
基本情報 | |
所在地 |
広島県広島市 南区比治山本町-右岸:中区鶴見町 |
交差物件 | 太田川水系京橋川 |
座標 | 北緯34度23分9.5秒 東経132度28分10.1秒 / 北緯34.385972度 東経132.469472度 |
関連項目 | |
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概要
編集構造
編集諸元
編集- 路線名 : 広島市道比治山庚午線
- 橋長 : 96.8m[1]
- 支間長 : 30.4m + 35.0m + 29.5m[1]
- 全幅 : 31m[1]
- 橋種 : 3径間連続鋼桁橋(両外側のみ箱桁、中央が鈑桁)[1]
- 設計 : 八千代エンジニヤリング[1]
- 施工 :
特徴
編集歴史
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昔、比治山に鶴︵ソデグロヅル︶が飛来していて、それを見るために現橋東詰あたりに広島藩により﹁鶴見小屋﹂が置かれていた[3]。また江戸時代、防犯のため城下には架橋規制がしかれており[4]、京橋川にはここの上流側に西国街道筋の京橋があるのみで、ここには﹁比治山渡し﹂という渡し場[1]があった。
明治に入ると廃藩置県により架橋規制は解かれ、1880年︵明治13年︶この地に橋長110m幅5.4mの木橋として架橋、鶴見小屋から﹁鶴見橋﹂と名前が付いた[1][4]。
1945年︵昭和20年︶8月6日原爆被災、爆心地から1.70キロメートルに位置した[5]。当時この橋の西詰では建物疎開で学徒や義勇軍が動員されており、出動学徒だけで49パーセントが死亡している[5][6]。橋自体は、木製高欄の一部が熱線により自然発火し床にも広がりつつあったところへ、避難者が協力して砂をかけて消しとめたため落橋には免れた[5]。上流にあった柳橋が焼け落ちてしまったため、比治山橋と共に市内から比治山へと避難者がたくさん押し寄せ、死者も続出し凄惨な現場となった[5][7]。なお爆心地側の西側にあった建物のほとんどは全焼しており、西方は己斐、南方は宇品まで見渡せる状況だった[8]。
同年9月の枕崎台風、同年10月の阿久根台風により京橋川は相次いで増水、この橋も流出の危険があったが、近隣住民の手により桁に引っかかりそうになる流木などの浮遊物を取り除いたため、落橋から免れた[9]。
1948年︵昭和23年︶、砂舟が橋脚を破損し一部落橋した[10]。その後直されたが、1958年︵昭和32年︶再び木橋で架けなおされる︵2代目︶[1]。1973年︵昭和48年︶鉄筋コンクリート桁の幅1.8mの人道橋︵歩道橋︶に架け替えられた︵3代目︶[1]。
1990年︵平成2年︶平和大通りの幅員に合わせ、広島市道比治山東雲線整備に伴い、現在の橋に架けかえられた︵4代目︶[1]。
ギャラリー
編集-
1930年ごろの広島市。京橋川下流から2番目の橋が鶴見橋。
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1945年被爆後。写真上部中央の橋が鶴見橋。
脚注
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(一)^ abcdefghijklmnop国総研.
(二)^ “鶴見橋”. ヒロシマピースメディア. 2015年5月30日閲覧。
(三)^ “しろうや!広島城 No.7” (PDF). 広島城. 2015年5月30日閲覧。
(四)^ ab“しろうや!広島城 第20号” (PDF). 広島城公式. 2015年5月30日閲覧。
(五)^ abcd“原爆被災説明板 --鶴見橋--”. 広島市. 2015年5月30日閲覧。
(六)^ 原爆戦災誌 1971, p. 811.
(七)^ 原爆戦災誌 1971, p. 453.
(八)^ 原爆戦災誌 1971, p. 457.
(九)^ 原爆戦災誌 1971, p. 459.
(十)^ 原爆戦災誌 1971, p. 251.
(11)^ ab国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
参考資料
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●﹁鶴見橋﹂、国交省国土技術政策総合研究所 景観デザイン規範事例集、2015年5月30日閲覧。
●広島市﹃広島原爆戦災誌﹄︵PDF︶︵改良版︶、2005年︵原著1971年︶。2015年5月30日閲覧。
●土木学会デザイン賞2001年優秀賞 - 土木学会