黒瀬川帯
構造
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ジュラ紀付加体である秩父帯北帯、秩父帯南帯︵三宝山帯︶の間に、関東山地から紀伊半島、四国、九州にわたって細長く帯状に分布する。その長さは1000kmにも達するが、幅は数km程度しかない。紀伊半島中央部では、秩父帯とともに分布を欠く。
主に古生代(ジュラ紀より古いシルル・デボン紀)の花崗岩、変成岩、石灰岩、堆積岩などが、周囲の岩石と断層で画されながらレンズ状に分布し、断層運動で上昇したとされる。これらの古生代の岩石は黒瀬川帯構成岩類と呼ばれ、日本では最古のものである。この岩石が分布するエリアを﹁狭義の黒瀬川帯﹂﹁黒瀬川構造帯﹂と呼ぶ。またレンズ状岩体境界に蛇紋岩が分布し蛇紋岩メランジュ帯と考えられたこともある。
黒瀬川構造帯に沿って周囲に分布するペルム紀付加体を含めた、秩父帯中のジュラ紀付加体以外の地質帯を﹁広義の黒瀬川帯﹂﹁黒瀬川帯﹂と呼ぶ。[1]
形成
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大陸側から太平洋側へと付加体が順に形成される考えが広まると、黒瀬川帯が新しい付加体より古い年代であるという矛盾が生じ、日本列島の成り立ちにおけるこの地質のギャップについて幾つかの説が出された。[2]
●テレーン説・独立した地質体テレーン︵黒瀬川古陸、より古い大陸パシフィカの断片︶を乗せたプレートがぶつかり付加体中に残されたという説は、大陸性の花崗岩などが少なすぎるなどの理由で衰退した。
●横ずれ説・外帯は現在の沖縄付近から1000km以上スライドして来たという説。この説のバージョンとして、中央構造線の存在と古生物地理分布を根拠とし、三郡-蓮華帯の西南の延長が黒瀬川帯と考えて、ユーラシア大陸南部の付加体が2000kmもの大移動をしてきたという説もある。
●ナップ説・新しい岩体が沈み古い岩体がシート状に乗り上げる新旧逆転構造をナップといい、侵食され古い岩体が取り残されたものをクリッペという。[3] 黒瀬川帯はかつては三郡-蓮華帯と連続していた岩盤の巨大なクリッペであるという説。
研究史
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分布
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脚注
編集- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)
- ^ 「絵でわかる日本列島の誕生」 ISBN 4061547739
- ^ 絵で見る地球科学ナップ 産総研地質調査総合センター
関連項目
編集参考文献
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外部リンク
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●市川浩一郎, 石井健一, 中川衷三, 須鎗和巳, 山下昇﹁黒瀬川構造帯:(四国秩父累帯の研究III)﹂﹃地質学雑誌﹄第62巻第725号、日本地質学会、1956年、82-103頁、doi:10.5575/geosoc.62.82。
●磯崎行雄﹁秩父累帯北帯新改層とペルム紀末の黒瀬川地塊北縁収束域﹂﹃地質学雑誌﹄第92巻第7号、日本地質学会、1986年、497-516頁、doi:10.5575/geosoc.92.497。
●山北聡﹁北部秩父帯とはどの範囲か:北部秩父帯と黒瀬川帯をめぐる地体区分上の問題﹂﹃地質学雑誌﹄第104巻第9号、日本地質学会、1998年、623-633頁、doi:10.5575/geosoc.104.623。