「エスコート (駆逐艦)」の版間の差分
誤字修正と細かい内容の追加 タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
m編集の要約なし |
||
57行目: | 57行目: | ||
1931年の建造計画で1932年11月1日に[[グリーノック]]のスコッツ社に発注。1933年3月30日に起工、1934年3月29日に[[進水]]。1934年10月30日に就役し、兵装などの政府が供給するものを除いた建造費用は24万9587ポンドであった<ref>English, pp. 63–64</ref>。就役後[[本国艦隊]]の第5駆逐群に配属され、1935年1月から3月の間は[[西インド諸島]]に派遣された。それから3月27日から4月30日まで[[シエネス]]で修理。アビシニア危機の間1935年9月から1936年3月まで[[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]に所属。シエネス滞在中エスコートは[[閘門]]に衝突し、9月5日まで修理に要した。[[スペイン内戦]]時は1939年3月24日まで[[不干渉委員会]]の布告を実施するためスペイン海域を巡回し、それからイギリスに戻った。帰国後エスコートは予備艦隊の軽巡洋艦[[カレドン (軽巡洋艦)|カレドン]]の補給船となったが、8月2日に再就役して第12駆逐群に配属された<ref>English, p. 71</ref>。
|
1931年の建造計画で1932年11月1日に[[グリーノック]]のスコッツ社に発注。1933年3月30日に起工、1934年3月29日に[[進水]]。1934年10月30日に就役し、兵装などの政府が供給するものを除いた建造費用は24万9587ポンドであった<ref>English, pp. 63–64</ref>。就役後[[本国艦隊]]の第5駆逐群に配属され、1935年1月から3月の間は[[西インド諸島]]に派遣された。それから3月27日から4月30日まで[[シエネス]]で修理。アビシニア危機の間1935年9月から1936年3月まで[[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]に所属。シエネス滞在中エスコートは[[閘門]]に衝突し、9月5日まで修理に要した。[[スペイン内戦]]時は1939年3月24日まで[[不干渉委員会]]の布告を実施するためスペイン海域を巡回し、それからイギリスに戻った。帰国後エスコートは予備艦隊の軽巡洋艦[[カレドン (軽巡洋艦)|カレドン]]の補給船となったが、8月2日に再就役して第12駆逐群に配属された<ref>English, p. 71</ref>。
|
||
9月3日、エスコートと駆逐艦[[エレクトラ (駆逐艦・2代)|エレクトラ]]はドイツ潜水艦U-30に撃沈された客船アセニアの生存者約300名を救助した<ref name=e2>English, p. 72</ref><ref>Rohwer, p. 2</ref>。エスコートは[[ウエスタンアプローチ]]での船団護衛や対潜任務に割り当てられた。12月には[[ロサイス]]に移り、[[北海]]で同様の任務にあたった。1940年1月10日から2月12日まで[[ファルマス]]で修理を行い、その後は再びおなじ任務に従事した<ref name=e2/>。2月25日、エスコートと駆逐艦[[イングルフィールド (駆逐艦)|イングルフィールド]]、[[イモージェン (駆逐艦)|イモージェン]]は、[[オークニー諸島]]の東約90マイルの地点で潜水艦[[ナワール (潜水艦)|ナワール]]により発見されたドイツ潜水艦U-63を撃沈した<ref>Rohwer, p. 16</ref><ref>English, p. 120</ref>。 |
9月3日、エスコートと駆逐艦[[エレクトラ (駆逐艦・2代)|エレクトラ]]はドイツ潜水艦U-30に撃沈された客船[[アセニア (客船・2代)|アセニア]]の生存者約300名を救助した<ref name=e2>English, p. 72</ref><ref>Rohwer, p. 2</ref>。エスコートは[[ウエスタンアプローチ]]での船団護衛や対潜任務に割り当てられた。12月には[[ロサイス]]に移り、[[北海]]で同様の任務にあたった。1940年1月10日から2月12日まで[[ファルマス]]で修理を行い、その後は再びおなじ任務に従事した<ref name=e2/>。2月25日、エスコートと駆逐艦[[イングルフィールド (駆逐艦)|イングルフィールド]]、[[イモージェン (駆逐艦)|イモージェン]]は、[[オークニー諸島]]の東約90マイルの地点で潜水艦[[ナワール (潜水艦)|ナワール]]により発見されたドイツ潜水艦U-63を撃沈した<ref>Rohwer, p. 16</ref><ref>English, p. 120</ref>。 |
||
4月はじめに[[ノルウェーの戦い]]が始まるとエスコートは本国艦隊に移り、4月9日にドイツ艦船探索に[[北海]]への出撃が行われるとエスコートは主力艦の護衛を行った。4月11日に空襲で駆逐艦[[エクリプス (駆逐艦)|エクリプス]]が損傷すると、エスコートはエクリプスをSullom Voeまで曳航した<ref>English, p. 113</ref>。4月25日からは、ノルウェーのドイツ目標を攻撃する空母[[グローリアス (空母)|グローリアス]]と[[アーク・ロイヤル (空母・初代)|アーク・ロイヤル]]を護衛した。エクリプスは4月27日にグローリアスが給油と航空機の補充のため[[スカパ・フロー]]に戻った際も同行した<ref>Haarr, pp. 146, 150</ref>。5月11日、ポーランド客船Chrobryと衝突し、わずかに損傷。6月26日までは本国艦隊に属してスカパ・フローを拠点とし、それから[[ジブラルタル]]に向かって[[H部隊]]に加わった。ジブラルタルには7月2日に到着した<ref name=e2/>。翌日[[メルセルケビール海戦]]に参加。[[MA5作戦]]([[サルデーニャ島]]のイタリア飛行場空襲)中、攻撃が中止された後の7月8日にエスコートはイタリア潜水艦[[グリエルモ・マルコーニ (潜水艦)|グリエルモ・マルコーニ]]の攻撃を受け被雷<ref>Rohwer, p. 32</ref>。魚雷はボイラー室の間に幅20フィートの穴を開け、乗員2名が死亡した。ジブラルタルへ向けて曳航されたが、7月11日朝に破孔から大量の浸水が起こり、そのまま沈没<ref name=e2/>。 |
4月はじめに[[ノルウェーの戦い]]が始まるとエスコートは本国艦隊に移り、4月9日にドイツ艦船探索に[[北海]]への出撃が行われるとエスコートは主力艦の護衛を行った。4月11日に空襲で駆逐艦[[エクリプス (駆逐艦)|エクリプス]]が損傷すると、エスコートはエクリプスをSullom Voeまで曳航した<ref>English, p. 113</ref>。4月25日からは、ノルウェーのドイツ目標を攻撃する空母[[グローリアス (空母)|グローリアス]]と[[アーク・ロイヤル (空母・初代)|アーク・ロイヤル]]を護衛した。エクリプスは4月27日にグローリアスが給油と航空機の補充のため[[スカパ・フロー]]に戻った際も同行した<ref>Haarr, pp. 146, 150</ref>。5月11日、ポーランド客船Chrobryと衝突し、わずかに損傷。6月26日までは本国艦隊に属してスカパ・フローを拠点とし、それから[[ジブラルタル]]に向かって[[H部隊]]に加わった。ジブラルタルには7月2日に到着した<ref name=e2/>。翌日[[メルセルケビール海戦]]に参加。[[MA5作戦]]([[サルデーニャ島]]のイタリア飛行場空襲)中、攻撃が中止された後の7月8日にエスコートはイタリア潜水艦[[グリエルモ・マルコーニ (潜水艦)|グリエルモ・マルコーニ]]の攻撃を受け被雷<ref>Rohwer, p. 32</ref>。魚雷はボイラー室の間に幅20フィートの穴を開け、乗員2名が死亡した。ジブラルタルへ向けて曳航されたが、7月11日朝に破孔から大量の浸水が起こり、そのまま沈没<ref name=e2/>。 |
2021年7月3日 (土) 02:53時点における版
![]() | |
艦歴 | |
---|---|
発注 | |
起工 | 1933年3月30日 |
進水 | 1934年3月29日 |
就役 | 1934年10月30日 |
退役 | |
その後 | 1940年7月11日に戦没 |
除籍 | |
性能諸元 | |
排水量 | 1,350トン |
全長 | 100.28m |
全幅 | 10.12m |
吃水 | 2.57m |
機関 | アドミラリティ式ボイラー 3缶 パーソンズ式ギヤードタービン 2基 2軸推進、38,000 shp |
最大速 | 36ノット |
乗員 | 145名 |
兵装 | 119 mm Mark IX 単装砲 4門 12.7mm Mark III 四連装機銃 2基 533 mm 四連装魚雷発射管 2基 爆雷20発 爆雷投射機 2基 爆雷投下軌条 1軌 |
艦歴
1931年の建造計画で1932年11月1日にグリーノックのスコッツ社に発注。1933年3月30日に起工、1934年3月29日に進水。1934年10月30日に就役し、兵装などの政府が供給するものを除いた建造費用は24万9587ポンドであった[1]。就役後本国艦隊の第5駆逐群に配属され、1935年1月から3月の間は西インド諸島に派遣された。それから3月27日から4月30日までシエネスで修理。アビシニア危機の間1935年9月から1936年3月まで地中海艦隊に所属。シエネス滞在中エスコートは閘門に衝突し、9月5日まで修理に要した。スペイン内戦時は1939年3月24日まで不干渉委員会の布告を実施するためスペイン海域を巡回し、それからイギリスに戻った。帰国後エスコートは予備艦隊の軽巡洋艦カレドンの補給船となったが、8月2日に再就役して第12駆逐群に配属された[2]。 9月3日、エスコートと駆逐艦エレクトラはドイツ潜水艦U-30に撃沈された客船アセニアの生存者約300名を救助した[3][4]。エスコートはウエスタンアプローチでの船団護衛や対潜任務に割り当てられた。12月にはロサイスに移り、北海で同様の任務にあたった。1940年1月10日から2月12日までファルマスで修理を行い、その後は再びおなじ任務に従事した[3]。2月25日、エスコートと駆逐艦イングルフィールド、イモージェンは、オークニー諸島の東約90マイルの地点で潜水艦ナワールにより発見されたドイツ潜水艦U-63を撃沈した[5][6]。 4月はじめにノルウェーの戦いが始まるとエスコートは本国艦隊に移り、4月9日にドイツ艦船探索に北海への出撃が行われるとエスコートは主力艦の護衛を行った。4月11日に空襲で駆逐艦エクリプスが損傷すると、エスコートはエクリプスをSullom Voeまで曳航した[7]。4月25日からは、ノルウェーのドイツ目標を攻撃する空母グローリアスとアーク・ロイヤルを護衛した。エクリプスは4月27日にグローリアスが給油と航空機の補充のためスカパ・フローに戻った際も同行した[8]。5月11日、ポーランド客船Chrobryと衝突し、わずかに損傷。6月26日までは本国艦隊に属してスカパ・フローを拠点とし、それからジブラルタルに向かってH部隊に加わった。ジブラルタルには7月2日に到着した[3]。翌日メルセルケビール海戦に参加。MA5作戦︵サルデーニャ島のイタリア飛行場空襲︶中、攻撃が中止された後の7月8日にエスコートはイタリア潜水艦グリエルモ・マルコーニの攻撃を受け被雷[9]。魚雷はボイラー室の間に幅20フィートの穴を開け、乗員2名が死亡した。ジブラルタルへ向けて曳航されたが、7月11日朝に破孔から大量の浸水が起こり、そのまま沈没[3]。脚注
参考文献
- English, John (1993). Amazon to Ivanhoe: British Standard Destroyers of the 1930s. Kendal, England: World Ship Society. ISBN 0-905617-64-9
- Haarr, Geirr H. (2010). The Battle for Norway: April–June 1940. Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 978-1-59114-051-1
- Rohwer, Jürgen (2005). Chronology of the War at Sea 1939-1945: The Naval History of World War Two (Third Revised ed.). Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-59114-119-2