「シャブタイ・ツヴィ」を編集中
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それ以降の数年間、ツヴィは[[ギリシア]]地方の各都市を転々としていたのだが、[[1658年]]になると信者の一団と共に[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]に現れた。ここでも巨大な魚を乗せた乳母車を押して町中を歩きながら市民にカバラの議論を吹きかけるなど、奇抜な行動で物議を醸すことになった。ある日のこと、たった一日で[[ユダヤ教]]の三大祭︵[[過越し|過越祭]]、[[ペンテコステ|シャブオット]]、[[仮庵の祭り|仮庵祭]]︶を開催したことがある。その日、ツヴィは仮庵の下に座りながら過越しの晩餐を催し、食後になるとティクン・レール・シャブオット︵シャブオットの夜に定められた学習内容︶を読み聞かせていた。もちろんこの行為は、ユダヤ教の伝統に対する挑発、冒涜に他ならなかった。この時期のツヴィには、ハラハーに対する違反を犯す自らをあべこべに祝福して喜ぶ傾向があり、そのさいはベレホト・ハ=シャホル︵早朝の祝福︶のごとく﹁戒律の解禁に祝福あれ﹂と叫んでいた。これも、救世主が到来する日にはハラハーによる禁止事項が無効になるという[[ミドラーシュ|ミドラシュ]]の記述に由来している。こういった醜聞を短期間のうちに撒き散らした末、ツヴィは追われるようにコンスタンティノープルを後にして故郷のイズミールに戻った。
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それ以降の数年間、ツヴィは[[ギリシア]]地方の各都市を転々としていたのだが、[[1658年]]になると信者の一団と共に[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]に現れた。ここでも巨大な魚を乗せた乳母車を押して町中を歩きながら市民にカバラの議論を吹きかけるなど、奇抜な行動で物議を醸すことになった。ある日のこと、たった一日で[[ユダヤ教]]の三大祭︵[[過越し|過越祭]]、[[ペンテコステ|シャブオット]]、[[仮庵の祭り|仮庵祭]]︶を開催したことがある。その日、ツヴィは仮庵の下に座りながら過越しの晩餐を催し、食後になるとティクン・レール・シャブオット︵シャブオットの夜に定められた学習内容︶を読み聞かせていた。もちろんこの行為は、ユダヤ教の伝統に対する挑発、冒涜に他ならなかった。この時期のツヴィには、ハラハーに対する違反を犯す自らをあべこべに祝福して喜ぶ傾向があり、そのさいはベレホト・ハ=シャホル︵早朝の祝福︶のごとく﹁戒律の解禁に祝福あれ﹂と叫んでいた。これも、救世主が到来する日にはハラハーによる禁止事項が無効になるという[[ミドラーシュ|ミドラシュ]]の記述に由来している。こういった醜聞を短期間のうちに撒き散らした末、ツヴィは追われるようにコンスタンティノープルを後にして故郷のイズミールに戻った。
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イズミールに戻ってからのツヴィは深刻な鬱状態に陥っていたようである。世間体を憂慮した兄弟たちは、当面の生活費を援助した上で彼を[[パレスティナ]]の地へ送り出すことにした。[[1662年]]、ツヴィは[[ロドス島]]と[[エジプト]]を経由してパレスティナへと向かった。エジプトでは財務大臣の要職にあったユダヤ人、ジェレビ・ラファエル・ヨセフ(「ジェレビ」はエジプト在留ユダヤ人の頭領に与えられる称号)が彼に魅了され、有力な支援者のひとりとなった。 |
イズミールに戻ってからのツヴィは深刻な鬱状態に陥っていたようである。世間体を憂慮した兄弟たちは、当面の生活費を援助した上で彼を[[パレスティナ]]の地へ送り出すことにした。[[1662年]]、ツヴィは[[ロードス島]]と[[エジプト]]を経由してパレスティナへと向かった。エジプトでは財務大臣の要職にあったユダヤ人、ジェレビ・ラファエル・ヨセフ(「ジェレビ」はエジプト在留ユダヤ人の頭領に与えられる称号)が彼に魅了され、有力な支援者のひとりとなった。 |
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エジプトに滞在中のこと、ツヴィの耳に[[リヴォルノ]]在住のサラという名前の風変わりな女性についての噂が届いた。それによれば、彼女は救世主の妻となるべく運命を背負わされているという啓示を受けたというのである。ツヴィはこの知らせを非常に喜び、すぐさま彼女をエジプトへと招き寄せた。両者は短時間の対面を済ませると結婚した<ref>この出来事は[[1665年]]における二度目のエジプト滞在時に起きたとも言われている。</ref>。 |
エジプトに滞在中のこと、ツヴィの耳に[[リヴォルノ]]在住のサラという名前の風変わりな女性についての噂が届いた。それによれば、彼女は救世主の妻となるべく運命を背負わされているという啓示を受けたというのである。ツヴィはこの知らせを非常に喜び、すぐさま彼女をエジプトへと招き寄せた。両者は短時間の対面を済ませると結婚した<ref>この出来事は[[1665年]]における二度目のエジプト滞在時に起きたとも言われている。</ref>。 |