「ステファヌ・マラルメ」を編集中
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[[パリ]]に生まれる。本名'''エティエンヌ・マラルメ'''(Étienne Mallarmé、フランス語の男子名でStéphaneはÉtienneの異形である)。若いうちに[[ヴィクトル・ユーゴー|ユーゴー]]らの[[ロマン派]]の影響を受けて詩作を始め、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の作風やアメリカの詩人・作家の[[エドガー・アラン・ポー]]の『詩の原理』をもとに創った詩が文壇に知られるようになる。[[フランス第三共和政|第三共和政]]下パリで、コンドルセ中学の教師として英語を教える傍ら、生涯にわたって詩の可能性を探り、難解な詩や批評を書き綴った。 |
[[パリ]]に生まれる。本名'''エティエンヌ・マラルメ'''(Étienne Mallarmé、フランス語の男子名でStéphaneはÉtienneの異形である)。若いうちに[[ヴィクトル・ユーゴー|ユーゴー]]らの[[ロマン派]]の影響を受けて詩作を始め、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]の作風やアメリカの詩人・作家の[[エドガー・アラン・ポー]]の『詩の原理』をもとに創った詩が文壇に知られるようになる。[[フランス第三共和政|第三共和政]]下パリで、コンドルセ中学の教師として英語を教える傍ら、生涯にわたって詩の可能性を探り、難解な詩や批評を書き綴った。 |
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初期詩篇と呼ばれる1860年代前半までの詩はボードレールの問題系である「理想と現実の差異への葛藤と苦しみ」が、その後は「詩が書けないこと」そのものを主たるテーマにおいている。マラルメがある時期から生涯を通じて目指していたのは、詩を創作する上で生じる「[[偶然]]」を排した完全・完璧な美しい詩を書くことであった。その並外れた困難さゆえに、極度の詩作の不毛に悩まされた。それこそが後に着想される「作品」 |
初期詩篇と呼ばれる1860年代前半までの詩はボードレールの問題系である「理想と現実の差異への葛藤と苦しみ」が、その後は「詩が書けないこと」そのものを主たるテーマにおいている。マラルメがある時期から生涯を通じて目指していたのは、詩を創作する上で生じる「[[偶然]]」を排した完全・完璧な美しい詩を書くことであった。その並外れた困難さゆえに、極度の詩作の不毛に悩まされた。それこそが後に着想される「作品」OEuvreである。彼の詩集に収められた詩は、幾つかの例外を除いて、ほとんどがこの「作品」(更なる後に「書物」Livreに置き換わる)の制作過程の副産物であったとも考えられる。 |
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1866年、その「作品」の重要な位置を担うはずの『エロディヤード』(古序曲)を書き進めていくうちに「形而上学的危機」(友人に宛てた手紙の中で「幸いにも私は完全に死んだ」との文言を書き記すが、これが[[モーリス・ブランショ]]の思索に強く影響を与える)と呼ばれる精神状態をもたらす。この世の一切が虚無であることに遭遇し、[[キリスト教]]における[[神]]の死を悟り、[[ロゴス]]と[[コギト・エルゴ・スム|コギト]]が解体され、[[存在]]の根拠を失う。しかし詩の根源的なあり方へとその思索と魂の探求を深めていくなかで、詩人は「美」Beauを発見し、それを詩と宇宙の中心原理とする。 |
1866年、その「作品」の重要な位置を担うはずの『エロディヤード』(古序曲)を書き進めていくうちに「形而上学的危機」(友人に宛てた手紙の中で「幸いにも私は完全に死んだ」との文言を書き記すが、これが[[モーリス・ブランショ]]の思索に強く影響を与える)と呼ばれる精神状態をもたらす。この世の一切が虚無であることに遭遇し、[[キリスト教]]における[[神]]の死を悟り、[[ロゴス]]と[[コギト・エルゴ・スム|コギト]]が解体され、[[存在]]の根拠を失う。しかし詩の根源的なあり方へとその思索と魂の探求を深めていくなかで、詩人は「美」Beauを発見し、それを詩と宇宙の中心原理とする。 |