コンテンツにスキップ

「ダギ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
2行目: 2行目:

'''ダギ'''({{lang-mn|ᠲᠠᠵᠢ}} 転写: {{lang|en|taǰi}}、'''Dagi''', ? - [[1322年]][[11月1日]])は、[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])の世祖[[クビライ]]の皇孫[[ダルマバラ]]の夫人で、武宗[[カイシャン]]と仁宗[[アユルバルワダ]]の母(皇太后)。漢字表記は答己。

'''ダギ'''({{lang-mn|ᠲᠠᠵᠢ}} 転写: {{lang|en|taǰi}}、'''Dagi''', ? - [[1322年]][[11月1日]])は、[[モンゴル帝国]]([[元 (王朝)|元]])の世祖[[クビライ]]の皇孫[[ダルマバラ]]の夫人で、武宗[[カイシャン]]と仁宗[[アユルバルワダ]]の母(皇太后)。漢字表記は答己。



[[コンギラト]]部族の出身で、[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の正夫人[[ボルテ]]の弟アルチ・ノヤンの曾孫にあたり、アルチ・ノヤンの四男ナチンの息子テムルの娘である。[[クビライ]]の皇后[[チャブイ]]は[[大おば]]にあたる。幼少のうちから燕王[[チンキム]](のち[[皇太子]])の宮廷に迎え入れられてその次男ダルマバラに近侍し、成人とともにダルマバラと結婚、カイシャンとアユルバルワダの2子をもうけた。

[[コンギラト]]部族の出身で、[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の正夫人[[ボルテ]]の弟アルチ・ノヤンの曾孫にあたり、アルチ・ノヤンの四男ナチンの息子テムルの娘である。[[クビライ]]の皇后[[チャブイ]]は大おばにあたる。幼少のうちから燕王[[チンキム]](のち[[皇太子]])の宮廷に迎え入れられてその次男ダルマバラに近侍し、成人とともにダルマバラと結婚、カイシャンとアユルバルワダの2子をもうけた。



夫の早世後、[[遊牧民]]の間では一般的な嫂婚制(父や兄の未亡人を娶ることでその財産を引き継ぐ制度)により、夫の弟にあたる成宗[[テムル]]との結婚が検討されたこともあったといわれるが、再婚は行われなかった。このためかテムルの皇后[[ブルガン]]とは不和であり、テムル晩年の[[1305年]]にはブルガンによって首都[[大都]]を遠ざけられ、次男のアユルバルワダとともに[[河南省|河南]]の懐州にあるダルマバラ家の所領にあった。

夫の早世後、[[遊牧民]]の間では一般的な嫂婚制(父や兄の未亡人を娶ることでその財産を引き継ぐ制度)により、夫の弟にあたる成宗[[テムル]]との結婚が検討されたこともあったといわれるが、再婚は行われなかった。このためかテムルの皇后[[ブルガン]]とは不和であり、テムル晩年の[[1305年]]にはブルガンによって首都[[大都]]を遠ざけられ、次男のアユルバルワダとともに[[河南省|河南]]の懐州にあるダルマバラ家の所領にあった。

21行目: 21行目:


{{デフォルトソート:たき}}

{{デフォルトソート:たき}}

[[Category:元の皇后]]

[[Category:元の追封皇后]]

[[Category:中国の皇族の妃]]

[[Category:コンギラト部]]

[[Category:コンギラト部]]

[[Category:1322年没]]

[[Category:1322年没]]


2016年5月24日 (火) 13:04時点における版

ダギ 「順宗皇帝后 塔濟」とある。

:  : taǰiDagi, ? - 1322111

2

1305

1307



131130



13154

132010

2