「トマス・ロバート・マルサス」を編集中
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[[イングランド]]の[[サリー (イングランド)|サリー州]]{{仮リンク|ウェストコット|en|Westcott, Surrey|label=}}にダニエル・マルサスの第2子として生まれる<ref>{{Cite web|title=Finding the Reverend Malthus at Bath Abbey|url=https://www.wessexarch.co.uk/news/finding-reverend-malthus-bath-abbey|website=www.wessexarch.co.uk|accessdate=2020-12-27|language=en|publisher=Wessex Archaeology Ltd}}</ref>。 |
[[イングランド]]の[[サリー (イングランド)|サリー州]]{{仮リンク|ウェストコット|en|Westcott, Surrey|label=}}にダニエル・マルサスの第2子として生まれる<ref>{{Cite web|title=Finding the Reverend Malthus at Bath Abbey|url=https://www.wessexarch.co.uk/news/finding-reverend-malthus-bath-abbey|website=www.wessexarch.co.uk|accessdate=2020-12-27|language=en|publisher=Wessex Archaeology Ltd}}</ref>。 |
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父ダニエルは[[弁護士]]で[[植物学]]者で、[[啓蒙主義]]者であった。彼は[[ジャン=ジャック・ルソー]]や[[デイヴィッド・ヒューム]]と親交があり、マルサスの生年1766年に自宅にルソーとヒュームを招待している<ref name="yasashii24">中矢俊博 『やさしい経済学史』 日本経済評論社、2012年、24頁。</ref>。''Malthus'' の名前の由来は''[[:en:Malthouse|Malthouse]]'' ([[麦芽製造所]])、つまりウィスキー工場とされている |
父ダニエルは[[弁護士]]で[[植物学]]者で、[[啓蒙主義]]者であった。彼は[[ジャン=ジャック・ルソー]]や[[デイヴィッド・ヒューム]]と親交があり、マルサスの生年1766年に自宅にルソーとヒュームを招待している<ref name="yasashii24">中矢俊博 『やさしい経済学史』 日本経済評論社、2012年、24頁。</ref>。''Malthus'' の名前の由来は''[[:en:Malthouse|Malthouse]]'' ([[麦芽製造所]])、つまりウィスキー工場とされている([[ジョン・メイナード・ケインズ]] 『J.M.ケインズ 人物評伝』 75頁より)<ref name=":1">小泉祐一郎 『図解経済学者バトルロワイヤル』 ナツメ社、2011年、221頁。</ref>。 |
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マルサスは家庭教師から指導を受け、また父からもきめ細かな教育を受けて育った。 |
マルサスは家庭教師から指導を受け、また父からもきめ細かな教育を受けて育った。 |
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[[1798年]]に匿名で小冊子の主著『[[人口論]]』を著し<ref>日本経済新聞社編 『世界を変えた経済学の名著』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、150頁。</ref><ref name="syosainomado">[http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1403/12.html 経済学史の窓から 第7回 マルサスは陰鬱な科学者か?]書斎の窓</ref>、この中で「[[幾何級数]]的に増加する人口と[[算術級数]]的に増加する食糧の差により[[人口過剰]]、すなわち[[貧困]]が発生する。これは必然であり、[[社会制度]]の改良では回避され得ない」とする見方(「'''[[マルサスの罠]]'''」)を提唱した。 |
[[1798年]]に匿名で小冊子の主著『[[人口論]]』を著し<ref>日本経済新聞社編 『世界を変えた経済学の名著』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、150頁。</ref><ref name="syosainomado">[http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1403/12.html 経済学史の窓から 第7回 マルサスは陰鬱な科学者か?]書斎の窓</ref>、この中で「[[幾何級数]]的に増加する人口と[[算術級数]]的に増加する食糧の差により[[人口過剰]]、すなわち[[貧困]]が発生する。これは必然であり、[[社会制度]]の改良では回避され得ない」とする見方(「'''[[マルサスの罠]]'''」)を提唱した。 |
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1799年、マルサスはドイツ、スウェーデン、フィンランド、ロシアに滞在し、その国の人口を観測し、自説の補強に力を注いだ。そして、『人口論』第2版を1803年に出した。この版には政治経済に関する重要論文が追加されている。このようなマルサスの考え方を非難するものも多数いたが、一方名声も大きなものになり、[[産児制限]]で最貧困層を救おうとする考えを「'''[[マルサス主義]]'''」ともいわれるようになった。 |
1799年、マルサスはドイツ、スウェーデン、フィンランド、ロシアに滞在し、その国の人口を観測し、自説の補強に力を注いだ。そして、『人口論』第2版を1803年に出した。この版には政治経済に関する重要論文が追加されている。このようなマルサスの考え方を非難するものも多数いたが、一方名声も大きなものになり、[[産児制限]]で最貧困層を救おうとする考えを「'''[[マルサス主義]]'''」ともいわれるようになった。経済学者として認知されるようになり、[[1805年]]には新しく設立された[[イギリス東インド会社|東インド会社]]付属学校(通称ヘイリーベリー・カレッジ)の政治経済学教授の職に付き<ref>Malthus T. R. 1798. An Essay on the Principle of Population. Oxford World's Classics reprint: xxix Chronology.</ref>、官僚の育成に当たっている<ref name="marusasu">フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命―世界大戦前夜 原書房 2005年 28ページ</ref>。経済学の教授の任命は、イギリスでは初めてのものだった<ref name=":0" /><ref name="yasashii24" />。 |
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1810年に『[[不換紙幣]]に関する論考』を、1814年には『[[穀物法|小麦法]]の効果についての考察』、1815年に『[[地代]]の性質と増加についての調査』などを著している。[[1820年]]には[[デヴィッド・リカード]]の経済説に反論した『[[:en:Principles of Political Economy (Malthus book)|経済学原理]] 』(小林時三郎訳注、[[岩波文庫]]上下)を著した。日本語訳書では『マルサス北欧旅行日記』(小林時三郎、[[西沢保]]訳、[[未來社]]、2002年)および『マルサス学会年報』〈マルサス学会編、1991年-2006年度版、2008年10月刊行、[[雄松堂出版]]〉15冊がある。 |
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経済学者として認知されるようになり、[[1805年]]には新しく設立された[[イギリス東インド会社|東インド会社]]付属学校(通称ヘイリーベリー・カレッジ)の政治経済学教授の職に付き<ref>Malthus T. R. 1798. An Essay on the Principle of Population. Oxford World's Classics reprint: xxix Chronology.</ref>、官僚の育成に当たっている<ref name="marusasu">フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命―世界大戦前夜 原書房 2005年 28ページ</ref>。経済学の教授の任命は、イギリスでは初めてのものだった<ref name=":0" /><ref name="yasashii24" />。 |
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マルサスは、[[東インド会社カレッジ]]の教授として終生務め、保養地の[[バース (イングランド)|バース]]で没したのは1834年12月29日である。その間、『人口論』を改定するなど執筆活動を旺盛に行った。 |
マルサスは、[[東インド会社カレッジ]]の教授として終生務め、保養地の[[バース (イングランド)|バース]]で没したのは1834年12月29日である。その間、『人口論』を改定するなど執筆活動を旺盛に行った。 |
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マルサスの罠は[[ハーバー・ボッシュ法]]による窒素の[[化学肥料]]の誕生や[[過リン酸石灰]]によるリンの化学肥料の誕生により克服された<ref name="hiryou">[http://www.niaes.affrc.go.jp/magazine/104/mgzn10408.html 独立行政法人農業環境技術研究所「情報:農業と環境 No.104 (2008年12月1日) 化学肥料の功績と土壌肥料学」]</ref>。 |
マルサスの罠は[[ハーバー・ボッシュ法]]による窒素の[[化学肥料]]の誕生や[[過リン酸石灰]]によるリンの化学肥料の誕生により克服された<ref name="hiryou">[http://www.niaes.affrc.go.jp/magazine/104/mgzn10408.html 独立行政法人農業環境技術研究所「情報:農業と環境 No.104 (2008年12月1日) 化学肥料の功績と土壌肥料学」]</ref>。 |
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== 著作 == |
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*[[1798年]] - 小冊子『[[人口論]]』を匿名で刊行。 |
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*1810年 - 『[[不換紙幣]]に関する論考』 |
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*1814年 - 『[[穀物法|小麦法]]の効果についての考察』 |
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*1815年 - 『[[地代]]の性質と増加についての調査』 |
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*[[1820年]] - 『[[:en:Principles of Political Economy (Malthus book)|経済学原理]] 』:[[デヴィッド・リカード]]の経済説への反論。(小林時三郎訳注、[[岩波文庫]]上下) |
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;日本語訳書 |
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*『マルサス北欧旅行日記』(小林時三郎、[[西沢保]]訳、[[未來社]]、2002年) |
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*『マルサス学会年報』〈マルサス学会編、1991年-2006年度版、2008年10月刊行、[[雄松堂出版]]〉15冊 |
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== 脚注 == |
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