フレッド・アーチャー
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フレッド・アーチャー︵Frederick James Archer, 1857年1月11日 - 1886年11月8日︶は19世紀イギリスのトップジョッキーである。英国クラシックレース通算21勝、リーディングジョッキー13回など、数々の記録を打ち立てた。そのため歴史上の名騎手を3人挙げろといわれたら、そのうちの一人はアーチャーだと言われているが、29歳という若さでピストル自殺でこの世を去る。
フレッド・アーチャーはイングランド領チェルトナムのセントジョージ病院で生まれた。父ウィリアム・アーチャーもまた、ジョッキーであり、1858年のグランドナショナルでリトルチャーリーに騎乗して勝利している。フレッドは幼少期をチェルトナムから南に3マイル離れたホースマンの街、プレストバリーで過ごし、そこで騎乗の訓練を受けた。
1867年、ニューマーケットに出てマシュー・ドーソン調教師に弟子入りし、1870年9月28日に初めて公式レースに出場した。1870年は15戦2勝、1871年は40戦3勝、1872年は180戦27勝と振るわなかったが、1873年に422戦107勝の成績を挙げると、翌年1874年から死亡する1886年を含めて13年間連続でリーディング騎手になった。英国では通算8084戦2748勝を挙げ、エプソムダービーを5勝した。又、国外ではアイルランドとフランスで騎乗し、仏ダービーを2勝している。1885年に彼が達成した年間246勝は1932年にゴードン・リチャーズに破られるまでイギリスの年間勝利数の記録であった。
代表的な騎乗馬には種牡馬としてサラブレッドの血統に大きな影響を与えたセントサイモンとベンドアがいる。特にベンドアでのエプソムダービー制覇は伝説的で、ダービーの25日前に暴れ馬ミュリーエドリスに噛みつかれ右腕を負傷すると、鉄板で右腕を固定しながら左腕一本で優勝してしまったという。さらにベンドアの子、オーモンドでエプソムダービーとセントレジャーステークスを勝ち、イギリスクラシック三冠を達成させた︵ただし2000ギニーは別の騎手による︶。
1883年1月31日、師マシュー・ドーソンの姪のネリー・ローズ・ドーソンと結婚した。子供は2人生まれたが、初めに生まれた息子は産後すぐに死亡してしまう。その後1884年、娘の出産の際にネリーは23歳の若さで死亡する。気分転換のためにアメリカに旅行するが、彼は決して明るい表情を取り戻さなかったという。さらに身長が178cmあるフレッドは50kg前後への減量に苦しんでいた。
1886年、病に冒されたフレッドは拳銃で脇腹を打ち抜いて自殺する。その直前に﹁Are they comming ?﹂︵やつらは来たか?︶と叫んだと姉であるコールマン夫人は証言している。この日11月8日は、最愛の妻ネリーの命日の翌日だった。