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「ルドルフ4世 (オーストリア公)」の版間の差分

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'''ルドルフ4世'''('''Rudolf IV''', [[1339年]][[11月1日]] - [[1365年]][[7月27日]])は、[[ハプスブルク家]]の当主、[[オーストリア大公]](在位:[[1358年]] - [[1365年]])。オーストリア公[[アルブレヒト2世 (オーストリア公)|アルブレヒト2世]](賢公)の子。偽造文書の駆使や破天荒な行動で知られ、「'''大公'''」(Erzherzog)の称号もルドルフ4世の詐称に始まった。「建設公」(der Stifter)と呼ばれる。


==生涯==

===建設公の急進的政策===

[[1358年]]、父アルブレヒト賢公が亡くなると、弟たちはまだ幼かったため、ルドルフ4世が単独統治者となった。ルドルフ4世は近代的な政策を多々含めた改革を、性急かつ強権的に進めた。民衆からの反動が爆発しなかったのは、ルドルフ4世が早世し、次の代でほとんど元に戻されたからである。


ルドルフは父の旧臣をことごとく退け、新しく用いた家臣には徹底的な服従を要求した。[[1360年]][[8月8日]]、ルドルフは統治の要諦を自ら公文書で発表した。「公爵領のあらゆる名声と権力は、挙げて領民たちの揺るぎない幸福にかかっている」と。また、「君主は領民たちの暗闇を明るく照らし出す神に選ばれし光であり、この光は過誤と混乱を根絶し、領民に公正の道を指し示す」と言い切っている。ルドルフは、まず都市に目を向けた。当時、都市は貴族や高位聖職者に握られていて、彼らの何代にも及ぶ圧力に耐え切れず廃業する商工業者が跡を絶たなかった。ルドルフは[[1360年]]夏、オーストリア内のすべての土地の地主に対して、領主権の放棄と買主の求めに応じた土地の売却を命じ、1ヶ月のうちにこれに従わない地主は土地へのあらゆる権利を失うとした。さらに、その土地の名義変更は、直接ルドルフ本人あるいはルドルフの全権委任者の前で行うとし、建築促進のために全ての新築物件は向こう3年間は無税とする条例を発した。地主階級はこれには猛烈に抵抗し、条例は修正を余儀なくされたが、彼らはルドルフの強権ぶりに恐怖した。


次は、オーストリア公の特権である[[貨幣]]改鋳権の放棄と、その代償としての消費税の導入であった。オーストリアでは毎年[[6月24日]]に、市中に出回っている貨幣の改鋳が行われた。オーストリア公の政府は常に、それまでより金銀の含有量の少ない新貨幣を発行するが、旧貨幣の所有者は、新貨幣と等価交換をしなければならなかった。これに対しルドルフは[[1361年]]春、貨幣改鋳権の放棄をする用意があると宣言し、代わって全ての料理店、食堂、酒屋、宿屋で売られる[[アルコール]]飲料に1割の消費税を課すこととした。これは、貨幣価値の毎年の下落を快く思わない庶民にとっても歓迎されるべきものだった。


1361年夏には、[[ウィーン]]市の全ての[[ツンフト]](同業組合)に適用されるツンフト禁止条例を発した。新参を許された商工業者は、ウィーンでの開業の日から3年間、市民税と財産税が無税となる画期的なもので、[[織田信長]]の「[[楽市楽座]]」と同じ発想のものであった。


父・賢公の治世の[[1349年]]にペストの流行があり、生き残った人々は恐怖から神への帰依をいっそう深いものにし、財産を教会に寄付したりしていた。また、[[1361年]]にはウィーンで大火事が頻発した。その上に凶作が相次ぎ、[[ワイン]]収穫量は激減して市の経済を直撃した。この危機にルドルフは、賢公が[[1340年]]に発した、聖職者への財産寄贈を規制した条例を拡大し、一般市民同様税金を払うべし、という条例も発した。この条例は、ウィーン市以外の都市にも広まっていった。さらに、政府管轄外の教会の裁判権の規制も行う。教会裁判権の規制、剥奪は、教会組織を「[[国家]]」に組み込むことを目指した、きわめて近代的な政策であった。これに対する[[教皇庁]]の介入阻止のための根回しも怠らず、ルドルフは弟アルブレヒト3世や甥エルンスト鉄公のように[[教皇]]に破門されることを免れた。高位聖職者が再び免税特権を手にするのは、4年後のルドルフ4世の死の後であった。


時代精神に反するこれらの政策は、ルドルフの死後元に戻ったり骨抜きにされた。しかし、土地吐き出しの政策、ツンフト禁止令、貨幣改鋳権放棄と消費税導入、高位聖職者と貴族の免税特権廃止、教会の裁判権規制の発想は残った。そのため後世、ハプスブルク家は他の王侯に先駆けて教会組織を王朝組織に組み入れることができた。また、ルドルフの突然の死で無用の混乱が起こらずにすみ、改革の発想がソフトランディングする道を残した。


===チロル奪取===

アルブレヒト賢公の時代、[[チロル]]はマインハルト伯爵家の領土であった。[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]の戦友マインハルト2世に、男系が絶えたら返還するという条件で封土されたものだった。第3代チロル伯である[[ケルンテン]]公[[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|ハインリヒ6世]]は男子を残さず他界し、「マウルタッシュ」(醜女)ことマルガレーテが唯一の相続人となった。このマルガレーテと最初に結婚したのは[[ルクセンブルク家]]の[[ヨハン・ハインリヒ (モラヴィア辺境伯)|ヨハン・ハインリヒ]]だったが、ルドルフは先の約定を盾に取ってチロルをハプスブルク家領と宣言し、夫婦の不仲を衝いてチロルの貴族を扇動し、ヨハン・ハインリヒを追放させた。


次に、[[ヴィッテルスバッハ家]]の皇帝[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の子、[[ブランデンブルク辺境伯]]ルートヴィヒが婿におさまったが、これに[[教皇]][[クレメンス6世]]が介入し、結婚の無効を宣言した。さらに、教皇にかまわず式を挙行した皇帝は破門され、ヨハン・ハインリヒの兄である[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]が[[対立王]]となった。[[1344年]]、ルートヴィヒとマルガレーテの間にはマインハルト3世が生まれたが、アルブレヒト賢公は、教皇に破門を取り消させる代わりに娘(ルドルフの妹)をマインハルト3世に嫁がせた。


[[1363年]]1月13日、マインハルト3世は死去した。ウィーンで知らせを聞いたルドルフ4世は、雪の中チロルに急行し、チロルを譲渡する証書にマルグレーテのサインを受け取った。そして証書の日付を強引に改竄して、チロルの反対派貴族の持つ証書の無効を主張して、チロルをハプスブルク家領にした。ヴィッテルスバッハ家が相続権を主張して送り出した軍勢も、チロルから徴収した軍資金で軍勢を揃えて撃退した。さらに皇帝カール4世が裁定に乗り出し、娘婿であるルドルフのチロル獲得が承認された。


===「大公」の詐称===

ハプスブルク家は[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]、[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]、[[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ3世]]の3人の[[ドイツ王]]を輩出した名家になっていたが、ルドルフは皇帝[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]の娘カタリーナを妃としながらも、[[金印勅書]]が定める7人の[[選帝侯]]には含まれていなかった。しかし父・賢公の死の翌年[[1359年]]、ルドルフは家臣に対して宣言した。「我はオーストリア公、[[シュタイアーマルク]]公、[[ケルンテン]]公、[[クライン]]公、並びに帝国狩猟長官、[[シュヴァーベン]]公、[[アルザス]]公、かつまたプファルツ大公である」と。



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===建設公ルドルフ===

ルドルフは「建設公」の異名の通り、ウィーンのシンボルである[[シュテファン大聖堂]]、[[ウィーン大学]]様々なものを建設した。など数多い。その中でも「[[大公]]」位の「建設」は特筆すべきもので、「ハプスブルク神話」の礎ともなるのであった。ルドルフは[[1365年]]、26歳の若さで他界した。「ルドルフが長生きしていたら、オーストリアを天まで昇らせたか、あるいは奈落の底までつき落としていただろう」と15世紀の[[年代記]]作者[[トーマス・エーベンハルト]]は『オーストリア年代記』に書いている。


==参考文献==

*[[中丸明]] 著 『ハプスブルク一千年』 1998年、[[新潮社]]

*[[菊池良生]] 著 『ハプスブルクをつくった男』 2004年、[[講談社]]


==関連項目==

*[[ハプスブルク家人物一覧]]

*[[ハプスブルク君主国]]

*[[大公]]


[[Category:オーストリアの君主|るとるふ4]]

[[Category:ハプスブルク家|るとるふ4]]

[[Category:1339年生|るとるふ4]]

[[Category:1365年没|るとるふ4]]


[[de:Rudolf IV. (Österreich)]]

[[en:Rudolf IV, Duke of Austria]]

[[et:Rudolf IV (Austria)]]

[[nl:Rudolf IV van Oostenrijk]]

[[ru:Рудольф IV (герцог Австрии)]]

[[sl:Rudolf IV. Habsburški]]


2007年2月14日 (水) 16:06時点における版