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北海道函館区に、父・小林善之助と母・鑑(戸籍上は「カン」)<ref name="道新20191126">【道南史の女性たち】8 阿部鑑(1880~1960年)函館出身の作家・久生十蘭の母/華道の腕 パリでも披露『[[北海道新聞]]』夕刊2019年11月26日(地域版「みなみ風」10頁)</ref> |
北海道函館区に、父・小林善之助と母・鑑(戸籍上は「カン」)<ref name="道新20191126">【道南史の女性たち】8 阿部鑑(1880~1960年)函館出身の作家・久生十蘭の母/華道の腕 パリでも披露『[[北海道新聞]]』夕刊2019年11月26日(地域版「みなみ風」10頁)</ref>の長男として生まれる。母方は[[船問屋|回漕業]]を営む家の次女<ref name="道新20191126"/>で[[草月流]][[生花]]の師匠、父は[[番頭]]頭だった(後に離婚)<ref name="道新20191126"/>。2歳の時に両親と離れて、回漕業を営む祖父阿部新之助に養育される。1916年春に函館区立寶小学校高等科を卒業して北海道庁立函館中学校(現:[[北海道函館中部高等学校]])に進学するも中退。[[東京]]の[[聖学院中学校・高等学校|聖学院中学]]に編入するが、同年8月に中退した<ref name="道新20191126"/>。この頃、[[芥川龍之介]]に私淑して文学書を耽読した。1920年に帰郷して、函館中学の先輩[[長谷川海太郎]]の父の経営する[[函館新聞|函館新聞社]]に勤務。演劇に興味を抱き、1922年に演劇集団「素劇会」に参加。1923年に函館の新聞記者や短歌団体「海峡詩社」の石川正雄、竹内清、[[高橋掬太郎]]らと同人グループ「生社」を結成、1924年に同人誌『生』に8編の詩、1926年に処女小説『蠶』、処女[[戯曲]]『九郎兵衛の最後』を発表。また函館新聞の文芸欄の編集、記事執筆をしながら、同欄で創作作品を掲載。1928年に上京し、[[岸田國士]]に師事。岸田が主宰する『悲劇喜劇』の編集に従事した。 |
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[[1929年]]から1933年まで[[フランス]]の[[パリ]]に遊学、パリ物理学校でレンズ工学を2年、パリ市立技芸学校で演劇を2年研究して[[シャルル・デュラン]]に師事する。母の鑑も息子を追って渡仏し、[[モンパルナス]]で挿花展を開いている<ref name="道新20191126"/>。 |
[[1929年]]から1933年まで[[フランス]]の[[パリ]]に遊学、パリ物理学校でレンズ工学を2年、パリ市立技芸学校で演劇を2年研究して[[シャルル・デュラン]]に師事する。母の鑑も息子を追って渡仏し、[[モンパルナス]]で挿花展を開いている<ref name="道新20191126"/>。 |
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1933年にパリ市立技芸学校を卒業し帰国、東京・[[青山 (東京都港区)|青山]]で母と暮らす<ref name="道新20191126"/>。[[新築地劇団]]演出部に入り、舞台監督を務めるが、まもなく脱退。函館中学校の後輩である[[水谷準]]が﹃[[新青年 (日本)|新青年]]﹄︵[[博文館]]︶の編集長を務めていたことから、同誌に、1933年に著名人探訪記事、[[トリスタン・ベルナール]]﹃天啓﹄﹃夜の遠征﹄﹃犯罪の家﹄の翻訳、1934年にパリ滞在の経験を元にコン吉・タヌ子を主人公とした﹃八人の小悪魔﹄をはじめとする連作集︵[[三一書房]]版[[全集]]で﹃ノンシャラン道中記﹄に改題︶、1935年に初の本格的な小説﹃黄金遁走曲﹄などを発表。当初は本名を用いていたが、[[1936年]]の﹃金狼﹄から'''久生十蘭'''の名義を使用し始めたほか、谷川早、六戸部力([[セクストン・ブレイク]]のもじり)、石田九万吉、阿部道代、狐野今吉、麹町子、覆面作家、安部正雄などの筆名を使った。1936年には、岸田の推薦で[[明治大学]]文芸科講師を務め、[[演劇]]論を教えた。1937年、岸田を発起人として結成された[[文学座]]に参加、文学座研究所の講師を務め、38年に[[文学座]]公演の[[ジュール・ロマン]]作﹃クノック﹄を演出、[[内村直也]]作﹃秋水嶺﹄を岸田と共同演出。1937年にはフランスの[[ |
1933年にパリ市立技芸学校を卒業し帰国、東京・[[青山 (東京都港区)|青山]]で母と暮らす<ref name="道新20191126"/>。[[新築地劇団]]演出部に入り、舞台監督を務めるが、まもなく脱退。函館中学校の後輩である[[水谷準]]が﹃[[新青年 (日本)|新青年]]﹄︵[[博文館]]︶の編集長を務めていたことから、同誌に、1933年に著名人探訪記事、[[トリスタン・ベルナール]]﹃天啓﹄﹃夜の遠征﹄﹃犯罪の家﹄の翻訳、1934年にパリ滞在の経験を元にコン吉・タヌ子を主人公とした﹃八人の小悪魔﹄をはじめとする連作集︵[[三一書房]]版[[全集]]で﹃ノンシャラン道中記﹄に改題︶、1935年に初の本格的な小説﹃黄金遁走曲﹄などを発表。当初は本名を用いていたが、[[1936年]]の﹃金狼﹄から'''久生十蘭'''の名義を使用し始めたほか、谷川早、六戸部力([[セクストン・ブレイク]]のもじり)、石田九万吉、阿部道代、狐野今吉、麹町子、覆面作家、安部正雄などの筆名を使った。1936年には、岸田の推薦で[[明治大学]]文芸科講師を務め、[[演劇]]論を教えた。1937年、岸田を発起人として結成された[[文学座]]に参加、文学座研究所の講師を務め、38年に[[文学座]]公演の[[ジュール・ロマン]]作﹃クノック﹄を演出、[[内村直也]]作﹃秋水嶺﹄を岸田と共同演出。1937年にはフランスの[[探偵小説]]であるレオン・サジイ﹃[[ジゴマ]]﹄、ピエール・スーヴェルト&マルセル・アラン﹃[[ファントマ]]﹄、[[ガストン・ルルー]]﹃ルレタビーユ﹄などを﹃新青年﹄別冊付録として翻訳。この原稿料で[[軽井沢]]千ヶ滝に[[別荘]]を購入し、ここで﹃魔都﹄を執筆した。
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1940年に岸田が[[大政翼賛会]]文化部長に就くと文化部嘱託となり、翼賛会宣伝部で﹃村の飛行兵﹄執筆。1941年に﹃新青年﹄の依頼で[[日中戦争]]下の[[中支那派遣軍|中支]]に従軍、冬青座のために[[脚本]]﹃浜木綿﹄﹃蜘蛛﹄﹃朝やけ﹄﹃鰯雲﹄執筆。1942年舞台座の﹃鰯雲﹄を演出、[[大佛次郎]]夫妻の媒酌により三ツ谷幸子と結婚。1943年に[[大日本帝国海軍|海軍]]報道班として南方に派遣され、一時行方不明も伝えられたが、1944年に帰国。同年[[銚子市|銚子]]へ[[疎開]]、1945年[[会津若松市|会津若松]]に疎開。[[日本の降伏|終戦]]後の1946年に銚子へ転居。1947年末から[[鎌倉市|鎌倉]]の[[材木座]]に住んだ。母の鑑が同居して[[茶道]]を教え、姉のテル︵輝︶が通いで助手を務めた<ref name="道新20191126"/>。
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1940年に岸田が[[大政翼賛会]]文化部長に就くと文化部嘱託となり、翼賛会宣伝部で﹃村の飛行兵﹄執筆。1941年に﹃新青年﹄の依頼で[[日中戦争]]下の[[中支那派遣軍|中支]]に従軍、冬青座のために[[脚本]]﹃浜木綿﹄﹃蜘蛛﹄﹃朝やけ﹄﹃鰯雲﹄執筆。1942年舞台座の﹃鰯雲﹄を演出、[[大佛次郎]]夫妻の媒酌により三ツ谷幸子と結婚。1943年に[[大日本帝国海軍|海軍]]報道班として南方に派遣され、一時行方不明も伝えられたが、1944年に帰国。同年[[銚子市|銚子]]へ[[疎開]]、1945年[[会津若松市|会津若松]]に疎開。[[日本の降伏|終戦]]後の1946年に銚子へ転居。1947年末から[[鎌倉市|鎌倉]]の[[材木座]]に住んだ。母の鑑が同居して[[茶道]]を教え、姉のテル︵輝︶が通いで助手を務めた<ref name="道新20191126"/>。
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[[顎十郎捕物帳]]は異様に顎の長い風貌を持つ仙波阿古十郎を主人公とする捕物小説で、その風貌はエドモン・ロスタン作『[[シラノ・ド・ベルジュラック (戯曲)|シラノ・ド・ベルジュラック]]』のもじりとも言われ<ref name=shimizu>[[清水邦夫]]「久生十蘭の“語り”と“騙り”」(『日本探偵小説全集 8 久生十蘭集』)</ref><ref name=eguchi/>、[[都筑道夫]]はこれが[[岡本綺堂]]『[[半七捕物帳]]』に続く正統派捕物帳として、この二作を手本にして『なめくじ長屋捕物さわぎ』書いたと述べており、さらに『[[小説現代]]』の依頼により顎十郎の新シリーズ『[[新顎十郎捕物帳]]』も執筆した<ref>『新 顎十郎捕物帳』講談社 1988年</ref>。 |
[[顎十郎捕物帳]]は異様に顎の長い風貌を持つ仙波阿古十郎を主人公とする捕物小説で、その風貌はエドモン・ロスタン作『[[シラノ・ド・ベルジュラック (戯曲)|シラノ・ド・ベルジュラック]]』のもじりとも言われ<ref name=shimizu>[[清水邦夫]]「久生十蘭の“語り”と“騙り”」(『日本探偵小説全集 8 久生十蘭集』)</ref><ref name=eguchi/>、[[都筑道夫]]はこれが[[岡本綺堂]]『[[半七捕物帳]]』に続く正統派捕物帳として、この二作を手本にして『なめくじ長屋捕物さわぎ』書いたと述べており、さらに『[[小説現代]]』の依頼により顎十郎の新シリーズ『[[新顎十郎捕物帳]]』も執筆した<ref>『新 顎十郎捕物帳』講談社 1988年</ref>。 |
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「無月物語」(1950)頃からは文体に「沈鬱でいながら明るい、重厚でありながら爽やかな響きが加わってきた」「[[森鴎外]]や[[メリメ]]と相かよう、乾ききった、それでいて対象を一刀のもとに抉りださずにいない鋭さを持つ」([[中井英夫]])<ref>中井英夫「解説」(『肌色の月』中央公論社 1975年)</ref> |
「無月物語」(1950)頃からは文体に「沈鬱でいながら明るい、重厚でありながら爽やかな響きが加わってきた」「[[森鴎外]]や[[メリメ]]と相かよう、乾ききった、それでいて対象を一刀のもとに抉りださずにいない鋭さを持つ」([[中井英夫]])<ref>中井英夫「解説」(『肌色の月』中央公論社 1975年)</ref>と言われるようになり、1952年「鈴木主水」直木賞受賞時の選後評では、[[大佛次郎]]「この浮気者(十蘭を指す)を抑へつけ、異例に属するゆたかな才能を軌道に落ち着かせる役を直木賞がするのだったら、意義のあることだと思った」、[[井伏鱒二]]「なるほど努力家であることは、表現に細心の注意を払はれていることによっても頷かれる」と述べられた<ref name=eguchi>江口雄輔「久生十蘭主要作品縦覧」(『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]』1989年6月号</ref>。 |
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私生活などを明かさないことでも知られた。[[太平洋戦争]]中の[[1943年]]に南方戦線([[ジャワ島]]や[[アンボン島]])で記した『従軍日記』が2004年に遺品の中から発見され、2007年に刊行された。従軍経験に関連する作品には、報道班員として戦地へ行く画家を描く『内地へよろしく』や、同様の設定の『風流旅情記』(『小説と読物』1950年7月号)があり、『母子像』は[[サイパン島玉砕]]の生き残りの親子を題材としている。 |
私生活などを明かさないことでも知られた。[[太平洋戦争]]中の[[1943年]]に南方戦線([[ジャワ島]]や[[アンボン島]])で記した『従軍日記』が2004年に遺品の中から発見され、2007年に刊行された。従軍経験に関連する作品には、報道班員として戦地へ行く画家を描く『内地へよろしく』や、同様の設定の『風流旅情記』(『小説と読物』1950年7月号)があり、『母子像』は[[サイパン島玉砕]]の生き残りの親子を題材としている。 |
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執筆には口述筆記を用いていた<ref |
執筆には口述筆記を用いていた<ref>[[清水邦夫]]「久生十蘭の“語り”と“騙り”」(『日本探偵小説全集 8 久生十蘭集』)</ref>。また、出版の度に文章の加筆を多く行った。全集等で初めて単行本化された作品も多い。 |
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=== 長編・連作短編=== |
=== 長編・連作短編=== |
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{{直木賞|第26回}} |
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{{デフォルトソート:ひさお しゆうらん}} |
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[[Category:20世紀日本の小説家]] |
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