「九鬼周造」を編集中
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父は[[明治]]を代表する[[文部省|文部]][[官僚]]で[[男爵]]の[[九鬼隆一]]。祖先は[[九鬼水軍]]を率いた[[戦国武将]]の[[九鬼嘉隆]]。母の[[九鬼波津子]]は周造を妊娠中に[[岡倉覚三]]︵天心︶と恋におち︵隆一は岡倉の上司であった︶、隆一と別居︵のち離縁︶するという事態となった<ref>[https://doi.org/10.14990/00003552 古川雄嗣﹁九鬼周造の人生と哲学﹂]</ref>。生みの父・隆一、精神上の父・岡倉、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃、訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。
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父は[[明治]]を代表する[[文部省|文部]][[官僚]]で[[男爵]]の[[九鬼隆一]]。祖先は[[九鬼水軍]]を率いた[[戦国武将]]の[[九鬼嘉隆]]。母の[[九鬼波津子]]は周造を妊娠中に[[岡倉覚三]]︵天心︶と恋におち︵隆一は岡倉の上司であった︶、隆一と別居︵のち離縁︶するという事態となった<ref>[https://doi.org/10.14990/00003552 古川雄嗣﹁九鬼周造の人生と哲学﹂]</ref>。生みの父・隆一、精神上の父・岡倉、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃、訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。
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[[1904年]]に[[東京高等師範学校]]附属中学校︵現‥[[筑波大学附属中学校・高等学校]]︶卒業。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]独法科に進むも文科に転じる。[[東京大学 |
[[1904年]]に[[東京高等師範学校]]附属中学校︵現‥[[筑波大学附属中学校・高等学校]]︶卒業。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]独法科に進むも文科に転じる。[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|文科大学]]哲学科では[[ラファエル・フォン・ケーベル]]に師事した。
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大学院中退後、妻とともに1921年よりヨーロッパ諸国へ足かけ8年間留学する<ref name=kohama>[http://id.nii.ac.jp/1085/00001251/ 根岸の女 : 九鬼周造と荷風]小浜善信 研究年報 巻48 2012-03-23</ref>。初め[[ドイツ国|ドイツ]]に渡り、[[新カント派]]の[[ハインリヒ・リッケルト]]に師事するが、それでは満たされず、のち[[フランス]]に渡り、[[アンリ・ベルクソン]]と面識を得るなどし、その哲学から強い影響を受ける。と同時に遊興にも走った。パリ時代には、[[フランス語]]の個人教師として、まだ学生だった[[ジャン・ポール・サルトル]]を雇っていた<ref>[https://www.ndl.go.jp/france/jp/column/s1_3.html 九鬼周造―巴里から江戸へ]近代日本とフランス、国立国会図書館</ref>。その後再びドイツに留学すると、今度は[[マルティン・ハイデッガー]]などから、[[現象学]]を学んだ。九鬼は[[三木清]]や[[和辻哲郎]]などとともに日本でハイデッガーの哲学を受容した最初の世代に当たり、「実存」といった哲学用語の訳語の定着をはじめとして、日本におけるハイデッガー受容において果たした役割は少なからぬものがあるといえる。また、ハイデッガーの方も九鬼を高く評価している<ref>ハイデッガー全集第12巻『言葉への途上』、「言葉についての対話より」、[[創文社]]、1996年、など。</ref>。 |
大学院中退後、妻とともに1921年よりヨーロッパ諸国へ足かけ8年間留学する<ref name=kohama>[http://id.nii.ac.jp/1085/00001251/ 根岸の女 : 九鬼周造と荷風]小浜善信 研究年報 巻48 2012-03-23</ref>。初め[[ドイツ国|ドイツ]]に渡り、[[新カント派]]の[[ハインリヒ・リッケルト]]に師事するが、それでは満たされず、のち[[フランス]]に渡り、[[アンリ・ベルクソン]]と面識を得るなどし、その哲学から強い影響を受ける。と同時に遊興にも走った。パリ時代には、[[フランス語]]の個人教師として、まだ学生だった[[ジャン・ポール・サルトル]]を雇っていた<ref>[https://www.ndl.go.jp/france/jp/column/s1_3.html 九鬼周造―巴里から江戸へ]近代日本とフランス、国立国会図書館</ref>。その後再びドイツに留学すると、今度は[[マルティン・ハイデッガー]]などから、[[現象学]]を学んだ。九鬼は[[三木清]]や[[和辻哲郎]]などとともに日本でハイデッガーの哲学を受容した最初の世代に当たり、「実存」といった哲学用語の訳語の定着をはじめとして、日本におけるハイデッガー受容において果たした役割は少なからぬものがあるといえる。また、ハイデッガーの方も九鬼を高く評価している<ref>ハイデッガー全集第12巻『言葉への途上』、「言葉についての対話より」、[[創文社]]、1996年、など。</ref>。 |