「二日会」の版間の差分
編集の要約なし |
Tanzan1884 (会話 | 投稿記録) m 参考文献・出典を追記 |
||
2行目: | 2行目: | ||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
自民党創成期に[[石橋湛山]]を中心に[[石田博英]]・[[大久保留次郎]]・[[島村一郎]]・[[宇都宮徳馬]]ら約20名で結成した火曜会(石橋派)が起源である。石橋と同様に党内の[[ハト派]]の議員が多かった。[[1956年12月自由民主党総裁選挙|1956年自民党総裁選]]にて、石橋当選の原動力となったが、石橋が総裁就任後、わずか2ヶ月で病気辞任してしまうと、総裁候補が不在で人数的にも資金的にも劣った火曜会は急速に弱体化し、間もなく解散した。 |
自民党創成期に[[石橋湛山]]を中心に[[石田博英]]・[[大久保留次郎]]・[[島村一郎]]・[[宇都宮徳馬]]ら約20名で結成した火曜会︵石橋派︶が起源である。石橋と同様に党内の[[ハト派]]の議員が多かったが、﹁来る者は拒まず、去る者は追わず﹂という石橋の性格を反映し<ref name="#1">中島︵2019︶、p.71</ref>、[[辻政信]]のような旧日本軍の参謀将校から政界に転じた者も加わっていた<ref name="#2">鈴村︵2022︶、pp.65-69</ref>。[[1956年12月自由民主党総裁選挙|1956年自民党総裁選]]にて、石橋当選の原動力となったが、石橋が総裁就任後、わずか2ヶ月で病気辞任してしまうと、総裁候補が不在で人数的にも資金的にも劣った火曜会は急速に弱体化し<ref name="#3">中島︵2019︶、p.67</ref>、間もなく解散した。
|
||
その後、無派閥となっていた石田、宇都宮ら旧石橋派のメンバーは[[1969年]]の総選挙の際に、石田派(二日会)を旗揚げするが、大派閥の前には新人獲得も思わしく進められず、[[1971年]]に石田、宇都宮、[[地崎宇三郎 (三代)|地崎宇三郎]]、[[山口敏夫]]の4人は同じハト派の派閥である[[番町政策研究所|政策懇談会]](三木派)に合流した。 |
その後、無派閥となっていた石田、宇都宮ら旧石橋派のメンバーは[[1969年]]の総選挙の際に、石田派(二日会)を旗揚げするが、大派閥の前には新人獲得も思わしく進められず、[[1971年]]に石田、宇都宮、[[地崎宇三郎 (三代)|地崎宇三郎]]、[[山口敏夫]]の4人は同じハト派の派閥である[[番町政策研究所|政策懇談会]](三木派)に合流した。 |
||
== 脚注 == |
|||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist|20em}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* [[中島政希]]「石橋派の変遷 石橋湛山をめぐる政治家たち」『自由思想』第153号、2019年 |
|||
* [[鈴村裕輔]]「自民党石橋派の盛衰 石橋湛山と辻政信の関係を踏まえつつ」『国際日本学』第19号、2022年 |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |