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明治5年︵[[1872年]]︶、[[征韓論]]に関連して西郷が[[満洲]]・[[李氏朝鮮|朝鮮]]偵察を命じた際には、[[北村重頼]]・[[河村洋与]]とともに外務大丞・[[花房義質]]の随員という形で[[釜山広域市|釜山]]に赴き、韓服を着、韓帽を戴き、変装して2ヶ月近く朝鮮内地を偵察した。帰朝の後、桐野利秋邸を訪れるや、門外より﹁鶏林八道︵韓国︶を蹂躙︵じゅうりん︶するは、我二三箇中隊にして足れり﹂︵﹃[[西南記伝]]﹄︶と叫んだと云われる。この後、少佐に昇進した。明治6年︵[[1873年]]︶、征韓論が破裂して西郷が下野すると、すぐさま少佐の職をなげうって鹿児島に帰った。明治7年︵[[1874年]]︶、鹿児島に青年教養のための[[私学校]]がつくられたときは、その創設に尽力した。明治8年︵[[1875年]]︶、県令・[[大山綱良]]が西郷に区長・副区長の推薦を依頼したとき、推薦されて加治木外四郷の区長となった。
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明治5年︵[[1872年]]︶、[[征韓論]]に関連して西郷が[[満洲]]・[[李氏朝鮮|朝鮮]]偵察を命じた際には、[[北村重頼]]・[[河村洋与]]とともに外務大丞・[[花房義質]]の随員という形で[[釜山広域市|釜山]]に赴き、韓服を着、韓帽を戴き、変装して2ヶ月近く朝鮮内地を偵察した。帰朝の後、桐野利秋邸を訪れるや、門外より﹁鶏林八道︵韓国︶を蹂躙︵じゅうりん︶するは、我二三箇中隊にして足れり﹂︵﹃[[西南記伝]]﹄︶と叫んだと云われる。この後、少佐に昇進した。明治6年︵[[1873年]]︶、征韓論が破裂して西郷が下野すると、すぐさま少佐の職をなげうって鹿児島に帰った。明治7年︵[[1874年]]︶、鹿児島に青年教養のための[[私学校]]がつくられたときは、その創設に尽力した。明治8年︵[[1875年]]︶、県令・[[大山綱良]]が西郷に区長・副区長の推薦を依頼したとき、推薦されて加治木外四郷の区長となった。
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明治10年︵[[1877年]]︶、私学校本校の大評議で出兵に決すると、別府は加治木・国分・帖佐・重富・山田・溝辺郷の兵を募って独立大隊︵後に六番大隊・七番大隊と呼ばれる。この2大隊は装備が古く、人数も少なかった︶を組織し、その連合指揮長となって先発北上した。[[2月20日]]、この大隊が川尻で |
明治10年︵[[1877年]]︶、私学校本校の大評議で出兵に決すると、別府は加治木・国分・帖佐・重富・山田・溝辺郷の兵を募って独立大隊︵後に六番大隊・七番大隊と呼ばれる。この2大隊は装備が古く、人数も少なかった︶を組織し、その連合指揮長となって先発北上した。[[2月20日]]、この大隊が川尻で熊本[[鎮台]]偵察部隊と遭遇戦をしたのが[[西南戦争]]の実戦の始まりである。次いで後続の大隊とともに[[熊本城]]を攻囲した。攻囲戦では別府は[[篠原国幹]]・[[村田新八]]らとともに背面軍を指揮した。[[2月24日]]、第一旅団・第二旅団が南関に着くと、[[池上四郎 (薩摩藩士)|池上四郎]]に攻囲軍の指揮をまかせ、[[永山弥一郎]]は政府軍上陸の抑えとして海岸線を守備し、桐野が山鹿、篠原が田原に北上し、晋介も村田新八と共に木留に進出して政府軍を挟撃した。
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山鹿・田原が陥落し、私学校生徒の戦死が相次いだため、3月、別府は鹿児島へ帰り、4月、新募の兵1500名を率いて北上した。[[4月3日]]、[[辺見十郎太]]とともに人吉から球磨川を下って八代を攻め、政府軍を南北から挟撃しようとしたが、萩原堤の戦いで敗れ、足に重傷を負って人吉に退いた。後に再び鹿児島へ帰り、温泉療養しながら横川に本営をおいて振武隊・[[行進隊]]などを指揮し、薩摩・大隅・日向で戦ったが振るわず、[[8月17日]]、西郷に従い、可愛嶽を突囲して九州南部山岳を踏破して鹿児島へ帰った。この間、足の負傷が癒えず、山駕籠に乗って移動した。9月24日︵[[城山 (鹿児島市城山町)|城山]]陥落の日︶、西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷に命じられ、晋介は駕籠から下り、﹁御免なったもんし︵お許しください︶﹂と叫び、拝礼している西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決した。享年31。
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山鹿・田原が陥落し、私学校生徒の戦死が相次いだため、3月、別府は鹿児島へ帰り、4月、新募の兵1500名を率いて北上した。[[4月3日]]、[[辺見十郎太]]とともに人吉から球磨川を下って八代を攻め、政府軍を南北から挟撃しようとしたが、萩原堤の戦いで敗れ、足に重傷を負って人吉に退いた。後に再び鹿児島へ帰り、温泉療養しながら横川に本営をおいて振武隊・[[行進隊]]などを指揮し、薩摩・大隅・日向で戦ったが振るわず、[[8月17日]]、西郷に従い、可愛嶽を突囲して九州南部山岳を踏破して鹿児島へ帰った。この間、足の負傷が癒えず、山駕籠に乗って移動した。9月24日︵[[城山 (鹿児島市城山町)|城山]]陥落の日︶、西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷に命じられ、晋介は駕籠から下り、﹁御免なったもんし︵お許しください︶﹂と叫び、拝礼している西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決した。享年31。
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