利用者‐会話:背番号9
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プレビュー機能のお知らせ
初めまして。ウィキペディアにご寄稿いただきましてありがとうございます。さて、背番号9さんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、同じ記事への連続投稿を控えて頂くようお願いに参りました。
投稿する前に﹁プレビューを実行﹂のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで
●マークアップ
●リンク
●誤字脱字
などを予めチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点についてはWikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすに説明がありますので、よろしければお読みください。また、Wikipedia:ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。
何はともあれ、化学系の記事執筆者は大歓迎です。引き続きよろしくお願いいたします。--スのG 2006年11月13日 (月) 08:06 (UTC)
若年者ユーザとの対話について
お疲れ様です。さて、標記問題について色々活動しようとされておられるようですが、私見をちょっと書かせてください。Nekosuki600さんは﹁専門分野については二十代中ごろ、一般的な分野だったら三十代中ごろ以降﹂を目安とされておられるようですが、私も﹁一般的には﹂同意します。可能性的には、写真好き少年さんのように小学生でもそれなりの活動が出来る方もおられるとは思いますが、これはひとえに彼の﹁自分が何が出来、何が出来ないかを知っている﹂資質によるところが大きいと思います。要は個々人の能力の及ばない部分には手を出さないという自制が効くのであれば小学生でも参加出来るというだけなのではないでしょうか?一般的にそのような自制を特に気にせずとも自然に振る舞えるのがNekosuki600さんの挙げた目安の年齢だと思います。じゃあ、その年齢までは何も出来ないのかというと、そんなことはない訳ですが、このような﹁自制﹂や﹁理解﹂というのは通り一遍の対話や教示ではどうしようもない部分というのはあろうかと思います。目安の年齢になれば、よほど自意識過剰か協調性のない人間以外は、周りとの折り合いをつけながら行動出来ると推定できますが、それ以前の年齢の方々は彼らの﹁資質﹂に負うところ大なので、一般的に排除すべきではないものの、対話を重ねたからといって行動が改まるものでもないと思いますよ。背番号9さんが気に病むこともないですし、貴方の責任でもありません。--ろう(Law soma) DC2007年11月4日 (日) 23:59 (UTC)
ご教授大変ありがとうございました。アホな私でも良く分かります。納得できます。まったくその通りだと思いました。私も、精神的に盛り上がったので色んな意見が頭から飛び出し、瞬間的には色々活動しようかとも思ったりもしましたが、基本的にそこまで精神エネルギーも、能力があるわけでもないので、今回のようによほど守ってあげたい人とか、縁のある人が議題にならない限り、当分は以前同様、細々と科学技術と阪神タイガース関連の記事の編集に専念しようと思っております。
それはそれとして、私が最近wikipediaに深く関わった事も原因だと思うのですが、Wikipedia内の認識に、かなり違和感を覚えることが、結構あるのです。Wikipediaは世間的には、誰でも参加でき、それで世界一の百科事典に肉薄している。という認識だと思っております。︵Wikipediaが積極的にそのような認識を与えた訳ではないかもしれませんが︶ところが参加してみると、意外と、初心者に辛辣であったり、実態と一般的な認識とにかなりギャップがあったり、慣習に慣れなかったり、それでいいのか?独善的でないか???とか思う箇所が幾つかあり、今回の件は特に大きな疑問を感じていました。人一人の話をするのに、○か×しかない答えって、やっぱり可笑しくないですか?彼らの力を生かしきれないのは、もちろん彼ら自身の問題もあるが、Wikipediaに問題が無いの?って不思議でした︵慣習やWP:KIDがあるのは知っていたのですが、色に染まっていない私から見ると、やっぱり不思議でした︶。よくいるじゃないですか、問題は全て他人にあるっていう困った方々が。。。Welcomeという印象を社会に与えて(故意ではないかもしれませんが︶招き入れて、自分の都合の悪いのは、追い出しちゃえっ!って。。。社会から見て、wikipediaって案外・・・勝手・・・て思っちゃう訳です。
やっぱりWikipediaにも本質的な問題があるだろうよと思っちゃう訳です。︵例えば、ルールが分かりづらいとか、どういった段階を踏んでWikipediaに﹁貢献﹂できるのかがわかりづらいとか。︶
ですから、追放されても彼らに責を全て負わすことなく、精神的に彼らが気持ちが和らぐように、丁寧なメッセージを残してあげるとか、後のフォローぐらい少なくともしてあげても、って思っちゃうわけです。それがあれば、その時は理解できなくても、理解できるようになった数年後に、またWikipediaに帰って来ようかって気にもなるじゃないですか。
社会におけるwikipediaという位置づけという視点も、今後はどんどん大切になってくると思います。さらに、もう少し人に優しいWikipediaでもいいのではないかとも思います。よい編集者1人が育つのはよいページ10個を育てるより困難で、より編集者1人はよいページ100個よりも貴重と思うのです。しかし、︵私を含めて︶未熟な編集者が育つ可能性を潰したり、逆に彼らを手ごわいヴァンダリストにするのは簡単だと思うのです。
これらの意見はまだ、初心者だからの甘い意見かもしれませんが、逆に初心者だから言える意見かもしれません。だからもうしばらくの間、この新鮮な視点は失いたくないと思っています。--背番号9 2007年11月5日 (月) 01:13 (UTC)
あと追記ですが、私ヘボながら、将棋もするのですが、将棋では飛車・角だけでなく歩が使いこなせる奴が結局強いんですよね・・・--背番号9 2007年11月5日 (月) 01:32 (UTC)
早い回答ありがとうございます。Wikipediaに対するスタンスというのは、これは人それぞれですので特にコメントは差し控えますが、常識を持っている人でしたら、︵他のコミュニティに比べて︶敷居の高さを意識することは少ないと思うんですね。ちなみに私が参加した当初に気を付けていたことは、﹁他人の編集事例を参考にすること﹂です。普通、どんなコミュニティに参加するときでも既参加者の行動を見て、問題のない部分を真似しつつ慣れていくものじゃないでしょうか。極端に言えば、﹁誤字等の修正﹂に始まり、新規投稿の際には﹁既存の項目の構成を参考に著作権違反にならないように執筆する﹂、そして十分に慣れたころに議論に参加したり削除依頼などの管理的編集を行う。これは﹁常識﹂でしょう。要するに﹁場の空気を読むこと﹂。このような常識のない人は、社会に出るのが早かったのです。Wikipediaに参加する際に、少なくとも私は多少なりとも最初は慎重であろうと思いましたし、そういう意味では敷居の高さを意識してビクビクしながら初投稿を行うというのは﹁当然﹂だと思うのです。ただ、本来どんなコミュニティであろうとも、そのような側面はあるのであって、何もWikipediaが特段敷居が高いとかいうことはないでしょう。一般的に新社会人には会社から研修が行われます。ここでは読んでおくべき文書などを示した﹁ようこそ﹂などの挨拶がそれに当たるでしょう。誰も自分を飛車角と思って歩を蔑んでなどいません。二歩や歩なのに斜めに進もうとする人に﹁まだ将棋を指すには早い﹂と言っているだけなのです。--ろう(Law soma) DC2007年11月5日 (月) 03:18 (UTC)