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2011年3月27日 (日) 15:04時点における版
合田 求吾︵ごうだ きゅうご、享保8年11月︵旧暦︶︵1723年︶- 安永2年6月1日︵1773年6月1日︶︶は、江戸時代中期の医学者。讃岐国豊田郡和田浜生まれ。︵現 香川県観音寺市︶。父は合田伝右衛門吉盤。弟は合田大介︵蘭斉︶。名は強,字は千之,通称求吾,温恭,号は巨鼈、鼈山。幼少の時、合田又玄,高橋柳哲について医を修め、宝暦2(1752)年2月京にて松原一閑斎に医と儒を学んだ。宝暦6年江戸にて望月三英につき、山脇東洋による﹃外台秘要方﹄の開板に携わった。宝暦12年1月長崎に行く途中の南肥後で永富独嘯庵・亀井南冥に出会い、ともに遊学し、吉雄耕牛・吉雄蘆風に学ぶ。著書に、日本最初の西洋式解剖書、西洋式内科書をまとめた︵﹃紅毛医言﹄︶、﹃復田求吾書﹄、﹃医道聞書﹄などがある。墓は香川県観音寺市豊浜町和田浜。
弟子に尾藤二洲がいる。