「嘉喜門院」を編集中
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嘉喜門院を天皇の生母とする説は、『嘉喜門院集』『[[新葉和歌集]]』に収録された和歌・[[詞書]]の解釈に拠るところが大きい。すなわち、嘉喜門院と当時の[[今上天皇]](『嘉喜門院集』の「内の御方」、『新葉和歌集』の「[[御製]]」)とが睦まじくしばしば贈答歌を交わしていることから、両者は母子関係であろうと推定されたのである。近世から明治に至って、両歌集の今上天皇は後亀山であるとの見解が支配的だったため、この時期に書かれた系図や史書は全て、嘉喜門院を後亀山の生母としていた。 |
嘉喜門院を天皇の生母とする説は、『嘉喜門院集』『[[新葉和歌集]]』に収録された和歌・[[詞書]]の解釈に拠るところが大きい。すなわち、嘉喜門院と当時の[[今上天皇]](『嘉喜門院集』の「内の御方」、『新葉和歌集』の「[[御製]]」)とが睦まじくしばしば贈答歌を交わしていることから、両者は母子関係であろうと推定されたのである。近世から明治に至って、両歌集の今上天皇は後亀山であるとの見解が支配的だったため、この時期に書かれた系図や史書は全て、嘉喜門院を後亀山の生母としていた。 |
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また、長慶と後亀山とが同母兄弟なのか否かについては、これを裏付ける確証がないことから否定的な見方が有力であった中で<ref>﹃大日本史﹄巻71、﹃纂輯御系図﹄、笹川臨風﹃南朝五十七年史﹄︵新潮社、1911年︶参照。</ref>、[[塙保己一]]のように早くから同母兄弟であることを主張する人もいた<ref>塙保己一 ﹃[[花咲松]]﹄参照。ただし塙は、後亀山を兄、長慶を弟と主張していた。</ref>。[[明治時代]]に入って長慶の在位に関する実証的研究が進むにつれ、両歌集の今上天皇は後亀山ではなく、長慶であるとの説が有力となり、嘉喜門院を長慶の生母とする新説を載せる系図や史書がにわかに増加した。ところがこの際、従来説との混在を避けられず、結局確証もないまま、両天皇ともに嘉喜門院所生の同母兄弟とすることが一般化したらしい。﹃嘉喜門院集﹄には後亀山との贈答歌も見えるが、これのみで母子関係を断じることは困難である。
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なお、先述の『満済准后日記』の記事からは、後亀山の[[東宮]](皇太弟)である[[護聖院宮]]([[惟成親王]]か)も嘉喜門院の所生であったと推定されている。 |
なお、先述の『満済准后日記』の記事からは、後亀山の[[東宮]](皇太弟)である[[護聖院宮]]([[惟成親王]]か)も嘉喜門院の所生であったと推定されている。 |