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嫡男の又兵衛は石合家に預けられており、[[寛永]]16年︵[[1639年]]︶に詮議を受けたが、落城後18年も経過していることもあり咎めはなかった。{{Sfn|丸島和洋|2016|p=211-212}}
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嫡男の又兵衛は石合家に預けられており、[[寛永]]16年︵[[1639年]]︶に詮議を受けたが、落城後18年も経過していることもあり咎めはなかった。{{Sfn|丸島和洋|2016|p=211-212}}
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2016年4月5日 (火) 13:38時点における版
堀田 興重 | |
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 不詳[1] |
死没 | 慶長16年7月7日(1615年6月3日)?[1] |
別名 | 作兵衛 |
主君 | 真田氏 |
兄弟 | 真田信繁室 |
子 | 又兵衛 |
堀田興重︵ほった おきしげ、生年不詳 - 1615年︵慶長20年︶5月7日︶は 戦国時代 から江戸時代初期にかけての人物。通称は作兵衛。
妹は真田信繁に嫁ぎ側室となり長女の﹁すへ﹂、次女の﹁於市﹂を産んだ。[1]
第二次上田合戦後は真田昌幸・信繁らには従わず上田に残った。
関が原の戦いから大坂冬の陣までの間にすへを養女とし、長窪宿︵長久保宿︶の本陣、石合道定へ嫁がせている。[1]
その後、信繁に従い大坂城へ入城し、大坂夏の陣にて戦死した。
大坂の陣終結後、興重の妻女は真田信之によって上田へ身柄を移された。興重の娘は幕府の詮議により大坂で処刑されたとの話も残るが、先の上田へ移されたという話と辻褄が合わず実際のところはわからない。[1]
嫡男の又兵衛は石合家に預けられており、寛永16年︵1639年︶に詮議を受けたが、落城後18年も経過していることもあり咎めはなかった。[1]
脚注
参考文献
- 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』KADOKAWA<新人物文庫>、2016年。ISBN 978-4-04-601099-5。