「大和町 (板橋区)」を編集中
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* [[1695年]]([[元禄]]8年):中用水建設。石神井川の水をくみ上げ、下板橋村・十条村・稲付村・赤羽村など、現在の板橋区および北区赤羽地区七ヶ村の田畑水利として活用された。 |
* [[1695年]]([[元禄]]8年):中用水建設。石神井川の水をくみ上げ、下板橋村・十条村・稲付村・赤羽村など、現在の板橋区および北区赤羽地区七ヶ村の田畑水利として活用された。 |
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* [[1749年]]([[寛延]]2年):五十宮倫子(いそのみやともこ)女王が、[[徳川家治]]将軍との婚儀に赴く行列が縁切榎前を通過しないための迂回路(根村道)が、現在の当町域内に普請される。 |
* [[1749年]]([[寛延]]2年):五十宮倫子(いそのみやともこ)女王が、[[徳川家治]]将軍との婚儀に赴く行列が縁切榎前を通過しないための迂回路(根村道)が、現在の当町域内に普請される。 |
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** 迂回路は[[1804年]]([[ |
** 迂回路は[[1804年]]([[文化]]元年)の楽宮(さざのみや)喬子女王と[[徳川家慶]]将軍の婚儀、[[1861年]]([[文久]]2年)の和宮親子(かずのみやちかこ)内親王と[[徳川家茂]]将軍との婚儀の際にも使用された。現在の国際興業バス富士見町停留所付近から環七通りを渡り、当町域と双葉町との境を下り、日曜寺から愛染通りを経て上宿に至る道であった。 |
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** [[和宮親子内親王]]の際には、﹁縁切榎の周りを菰で覆い、見えなくさせた上で通行させた﹂という俗説があるが、板橋宿仲宿名主、飯田侃︵かん︶家の古文書に、この時も先例に倣い根村道を通行したことが記録されている。菰覆いの伝承は、宿泊受け入れの際に飯田侃家が﹁不浄の物は筵で覆うこと﹂という通達を宿場関係者に出したことと混同されて発生したものと考えられている<ref>板橋区教育委員会が2006年に縁切榎現地に建てた説明文による。</ref>。
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** [[和宮親子内親王]]の際には、﹁縁切榎の周りを菰で覆い、見えなくさせた上で通行させた﹂という俗説があるが、板橋宿仲宿名主、飯田侃︵かん︶家の古文書に、この時も先例に倣い根村道を通行したことが記録されている。菰覆いの伝承は、宿泊受け入れの際に飯田侃家が﹁不浄の物は筵で覆うこと﹂という通達を宿場関係者に出したことと混同されて発生したものと考えられている<ref>板橋区教育委員会が2006年に縁切榎現地に建てた説明文による。</ref>。
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* [[1871年]]([[明治]]4年)11月:[[浦和県]]から[[東京府]]に編入。[[大区小区制]]実施。 |
* [[1871年]]([[明治]]4年)11月:[[浦和県]]から[[東京府]]に編入。[[大区小区制]]実施。 |