「大谷光瑞」を編集中
最新版 | 編集中の文章 | ||
11行目: | 11行目: | ||
|諡号= |
|諡号= |
||
|尊称= |
|尊称= |
||
|生地={{JPN}} |
|生地={{JPN}} [[京都府]] |
||
|没地={{JPN}} |
|没地={{JPN}} [[大分県]][[別府市]] |
||
|画像=[[File:Kozui Otani 01.jpg|250px]] |
|画像=[[File:Kozui Otani 01.jpg|250px]] |
||
|説明文= |
|説明文= |
||
23行目: | 23行目: | ||
|廟= |
|廟= |
||
}} |
}} |
||
[[ |
[[画像:Kozui Otani.jpg|thumb|200px|大谷光瑞(27歳)]] |
||
[[ファイル:逍遙園.JPG|200px|thumb|高雄逍遥園( |
[[ファイル:逍遙園.JPG|200px|thumb|高雄逍遥園(現状)]] |
||
'''大谷 光瑞'''︵おおたに こうずい、[[1876年]]︵[[明治]]9年︶[[12月27日]] - [[1948年]]︵[[昭和]]23年︶[[10月5日]]︶は、[[日本]]の[[宗教家]]︵[[僧]]︶・[[探検家]]。[[浄土真宗本願寺派]]第22世[[法主]]、[[伯爵]]、国営競馬[[馬主]]。
|
|||
[[諱]]は光瑞。[[法名 (浄土真宗)|法名]]は鏡如上人。[[院号]]は信英院。
|
'''大谷 光瑞'''︵おおたに こうずい、[[1876年]]︵[[明治]]9年︶[[12月27日]] - [[1948年]]︵[[昭和]]23年︶[[10月5日]]︶は[[日本]]の宗教家︵[[僧]]︶、[[探検家]]。[[浄土真宗本願寺派]]第22世[[法主]]。[[伯爵]]。[[諱]]は光瑞。[[法名 (浄土真宗)|法名]]は鏡如上人。[[院号]]は信英院。
|
||
弟に[[真宗木辺派]]の本山[[錦織寺]]第20代法主となる[[木辺孝慈 |
弟に[[真宗木辺派]]の本山[[錦織寺]]第20代法主となる[[木辺孝慈]]がいる。妻は[[大正天皇]]の皇后・[[貞明皇后|九条節子]]の姉・[[大谷籌子|籌子]](かずこ)。 |
||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
第21世法主・[[大谷光尊]](明如上人)の長男として誕生する。幼名は峻麿といった。 |
第21世法主・[[大谷光尊]](明如上人)の長男として誕生する。幼名は峻麿といった。 |
||
[[1885年]]︵明治18年︶、9歳で[[得度]]。翌[[1886年]]︵明治19年︶、上京して[[学習院]]に入学するが退学。その後、[[尺振八]]の開いた |
[[1885年]]︵明治18年︶、9歳で[[得度]]。翌[[1886年]]︵明治19年︶、上京して[[学習院]]に入学するが退学。その後、[[尺振八]]の開いた共立学舎︵当時受験校で知られていた[[共立学校]]とは別︶という英学校に入学するもやはり退学。京都に帰り[[前田慧雲]]︵のち[[東洋大学]]学長・[[龍谷大学]]学長︶に学んだ。
|
||
[[1902年]]︵明治35年︶8月、教団活動の一環として[[西域]]探検のため[[インド]]に渡り、仏蹟の[[発掘調査]]に当たった。[[1903年]]︵明治36年︶[[1月14日]]朝、[[ビハール州]][[ラージギル]]郊外で長らく位置が判らなかった旭日に照らされた[[釈迦]]ゆかりの[[霊鷲山]]を発見している。同年に父・光尊が死去し、法主を継職するため帰国したが、探検・調査活動は[[1904年]]︵明治37年︶まで続けられた。これがいわゆる'''[[大谷探検隊]]'''︵第1次︶である。法主継職後も探検を続行させ、[[1914年]]︵大正3年︶まで計3回にわたる発掘調査等が実施された<ref>詳しくは、﹃シルクロード探検﹄︵[[長沢和俊]]編、西域探検紀行全集第9巻‥[[白水社]]︶を参照、新装版で再刊。</ref>。
|
|||
法主としては教団の[[近代化]]に努め、[[日露戦争]]には多数の従軍布教使を派遣。海外伝道も積極的に進めた。 |
法主としては教団の[[近代化]]に努め、[[日露戦争]]には多数の従軍布教使を派遣。海外伝道も積極的に進めた。 |
||
[[1908年]]︵明治38年︶、[[六甲山]]麓 |
[[1908年]]︵明治38年︶、[[神戸市|神戸]][[六甲山]]麓[[岡本 (神戸市)|岡本]]︵[[東灘区]]岡本︶に盟友[[伊東忠太]]の設計になる'''[[二楽荘]]'''を建て、探検収集品の公開展示・整理の他、英才教育のための学校︵現在は[[甲南大学]]理学部︶、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置。文化活動の拠点とした。
|
||
[[1913年]]([[大正]]2年)に[[孫文]]と会見したのを機に、孫文が率いていた[[中華民国]]政府の最高顧問に就任した。 |
[[1913年]]([[大正]]2年)に[[孫文]]と会見したのを機に、孫文が率いていた[[中華民国]]政府の最高顧問に就任した。 |
||
1914年︵大正3年︶、大谷家が抱えていた巨額の負債整理、および教団の[[疑獄事件]]のため法主を辞任し、[[大連市|大連]]に隠退した。二楽荘と探検収集品もこの時に手放している。現在、これらのコレクションは散逸し<ref>大谷コレクションは、中国・[[旅順博物館]]、[[韓国国立中央博物館]]、[[東京国立博物館]]、[[龍谷大学]]などで分蔵している。﹃大谷光瑞と西域美術﹄ |
1914年︵大正3年︶、大谷家が抱えていた巨額の負債整理、および教団の[[疑獄事件]]のため法主を辞任し、[[大連市|大連]]に隠退した。二楽荘と探検収集品もこの時に手放している。現在、これらのコレクションは散逸し<ref>大谷コレクションは、中国・[[旅順博物館]]、[[韓国国立中央博物館]]、[[東京国立博物館]]、[[龍谷大学]]などで分蔵している。﹃大谷光瑞と西域美術﹄<日本の美術434号>至文堂︵2002年︶に一部紹介されている。</ref>、[[二楽荘]]も[[1932年]]︵昭和7年︶に火災で焼失した。
|
||
隠退後も文化活動を続け、[[1919年]](大正8年)には光寿会を設立して仏典原典([[梵字]]で記述)の[[翻訳]]にあたり、[[1921年]](大正10年)には[[上海市|上海]]に次代を担う人材育成のために策進書院を開校した。 |
隠退後も文化活動を続け、[[1919年]](大正8年)には光寿会を設立して仏典原典([[梵字]]で記述)の[[翻訳]]にあたり、[[1921年]](大正10年)には[[上海市|上海]]に次代を担う人材育成のために策進書院を開校した。 |
||
⚫ | |||
1935年︵昭和10年︶2月に、ジャワ島で熱帯農業経営の経験があり、台湾農業発展を協力し、台湾総督府の要請に応え、2週間かかり台湾を視察に行った。内地に戻り、台湾訪問に基づき、﹃台湾島の現在﹄を著述した。当年10月、熱帯産業調査会は台北で総督府に開催され、また台湾に出席に行った。
|
|||
⚫ | |||
1939年︵昭和14年︶、台湾高雄が将来性があると考えそうで、当時まだ郊外であった大港埔で、台湾製糖株式会社から土地を購入、大谷農園を開発し始めた。また茶園や果樹園も投資し、レモン、バナナ、パイナップルも缶詰の加工工場へ運送した。
|
|||
[[ファイル:逍遥園2020年.jpg|サムネイル|高雄逍遥園(修復後)]] |
|||
1940年(昭和15年)、台湾高雄大港埔で別荘として建設された逍遥園が落成された。 |
|||
⚫ | |||
| 和書 |
|||
| title = 公職追放に関する覚書該当者名簿 |
|||
| editor = 総理庁官房監査課 |
|||
| publisher = 日比谷政経会 |
|||
| year = 1949 |
|||
| id = {{NDLJP|1276156}} |
|||
| page = [{{NDLDC|1276156/571}} 501] |
|||
| ref = harv |
|||
}} )</ref>。 |
|||
⚫ | |||
晩年の地・別府では、当時国際観光都市建設を目指し、政府に[[特別都市建設法]]の立法︵[[1950年]]︵昭和25年︶に﹁[[別府国際観光温泉文化都市建設法]]﹂として制定︶を働きかけていた市長・脇鉄一に賛同。助言を与え、自ら私案も立てている。
|
晩年の地・別府では、当時国際観光都市建設を目指し、政府に[[特別都市建設法]]の立法︵[[1950年]]︵昭和25年︶に﹁[[別府国際観光温泉文化都市建設法]]﹂として制定︶を働きかけていた市長・脇鉄一に賛同。助言を与え、自ら私案も立てている。
|
||
== フィクションでの描写 == |
== フィクションでの描写 == |
||
[[荒俣宏]]の小説﹃[[帝都物語]]﹄では、[[加持祈祷]]による米英ソの戦争指導者の呪殺を画策する事になっている。事実と異なる創作ではあるものの、浄土真宗の教義では加持祈祷を否定しており、作中の描写はそれに反するものである。映画版の﹃[[帝都物語#帝都大戦|帝都大戦]]﹄では、観阿弥光凰なる架空の人物に置き換えられている。
|
[[荒俣宏]]の小説﹃[[帝都物語]]﹄では、[[加持祈祷]]による米英ソの戦争指導者の呪殺を画策する事になっている。もちろん事実と異なる創作ではあるものの、浄土真宗の教義では加持祈祷を否定しており、作中の描写はそれに反するものである。映画版の﹃[[帝都物語#帝都大戦|帝都大戦]]﹄では、観阿弥光凰なる架空の人物に置き換えられている。
|
||
また、[[辻原登]]の小説『許されざる者』の登場人物谷晃之は、京都に総本山をおく巨大仏教教団の宗家長子であり、西域を探検・調査 |
また、[[辻原登]]の小説﹃許されざる者﹄の登場人物谷晃之は、京都に総本山をおく巨大仏教教団の宗家長子であり、西域を探検・調査することなどから、大谷光瑞を彷彿させる。
|
||
== 栄典 == |
== 栄典 == |
||
⚫ | * [[1945年]](昭和20年)[[1月15日]] - [[賞杯|御紋付木杯]]<ref>『官報』第5398号、「宮廷緑事」1945年01月16日。</ref> |
||
;位階 |
|||
* [[1903年]](明治36年)[[3月30日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第5920号「叙任及辞令」1903年3月31日。</ref> |
|||
⚫ | |||
;勲章等 |
|||
⚫ | |||
⚫ | * [[1945年]](昭和20年)[[1月15日]] - [[賞杯|御紋付木杯]]<ref>『官報』第5398号「宮廷 |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
* 『大谷探検隊 西域探検紀行全集9』[[長澤和俊|長沢和俊]]編、[[白水社]]、1966年。単行新版 2004年ほか |
|||
== 伝記・評伝 == |
== 伝記・評伝 == |
||
* [[ |
* [[津本陽]] 『大谷光瑞の生涯』([[角川文庫]]) |
||
* [[ |
* [[杉森久英]] 『大谷光瑞』([[中央公論社]]) |
||
*『大谷光瑞とアジア』(柴田幹夫編、[[勉誠出版]]、2010年5月)-多角的な観点からの論考を収む。 |
*『大谷光瑞とアジア』(柴田幹夫編、[[勉誠出版]]、2010年5月)-多角的な観点からの論考を収む。 |
||
*『大谷光瑞の研究:アジア広域における諸活動』(柴田幹夫、[[勉誠出版]]、2014年5月)-大谷光瑞の評伝としては、信頼できるもの。 |
|||
*『大谷光瑞と国際政治社会 チベット、探検隊、辛亥革命』(白須淨眞編、勉誠出版、2011年10月)-当時の国際情勢での活動の一端を論考。 |
|||
*『大谷光瑞とスヴェン・ヘディン』(白須淨眞編、勉誠出版、2014年9月)-当時の国際政治社会での探検家[[スヴェン・ヘディン]]([[スウェーデン]])との交流を論考。 |
|||
*『「世界」へのまなざし 最古の世界地図から[[南方熊楠]]・大谷光瑞へ』(三谷真澄編、[[法藏館]]、2017年12月) |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
<references/> |
|||
{{Reflist}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
* |
*[[グレート・ゲーム]] |
||
* |
*[[シルクロード]] |
||
* |
*[[東洋学]] |
||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
* [http://www.beppu-betsuin.jp/sidemenu/0s_otani.html 大谷記念館] - 西本願寺別府別院内に開設。遺品などを展示している。 |
* [http://www.beppu-betsuin.jp/sidemenu/0s_otani.html 大谷記念館] - 西本願寺別府別院内に開設。遺品などを展示している。 |
||
{{S-start}} |
|||
------- |
|||
{{S-reg|jp}} |
|||
{{Succession box |
|||
| title = 伯爵 |
|||
| years = [[大谷家]]([[本願寺派]])第2代<br/>1903年 - 1914年 |
|||
| before = [[大谷光尊]] |
|||
| after = [[大谷光照]] |
|||
}} |
|||
{{S-end}} |
|||
{{本願寺}} |
{{本願寺}} |
||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:おおたに こうすい}} |
{{DEFAULTSORT:おおたに こうすい}} |
||
[[Category:19世紀日本の僧]] |
|||
[[Category:20世紀日本の僧]] |
|||
[[Category:浄土真宗の僧]] |
[[Category:浄土真宗の僧]] |
||
⚫ | |||
[[Category:日本の伯爵]] |
[[Category:日本の伯爵]] |
||
[[Category: |
[[Category:阪神間モダニズム]] |
||
[[Category: |
[[Category:シルクロード]] |
||
[[Category:公職追放者]] |
|||
[[Category:東京地学協会の人物]] |
[[Category:東京地学協会の人物]] |
||
[[Category:日本のアジア研究史の人物]] |
[[Category:日本のアジア研究史の人物]] |
||
[[Category:戦前日本のアジア主義の人物]] |
[[Category:戦前日本のアジア主義の人物]] |
||
[[Category: |
[[Category:顧問]] |
||
[[Category: |
[[Category:馬主]] |
||
[[Category:シルクロード|人]] |
|||
[[Category:1876年生]] |
[[Category:1876年生]] |
||
[[Category:1948年没]] |
[[Category:1948年没]] |
||
⚫ |