「宇治橋断碑」の版間の差分
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:'''浼浼横流''' '''其疾如箭''' '''修'''々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿 |
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:'''即因微善''' '''爰発大願''' '''結'''因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁 |
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補石の際に、第1行第3句﹁々﹂を﹁修﹂に、第1行第8句﹁竿﹂を﹁葦﹂に、第3行第8句﹁昔﹂を﹁苦﹂に改めている。また日本古代史家で金石文研究家の藪田嘉一郎︵[[1905年|1905]]~[[1976年|76]]︶は、さらに第1行第8句﹁航﹂を﹁杭﹂に、第2行第4句﹁慧﹂を﹁恵﹂に正す。その校正理由は、
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* 「々」→「修」- 断碑に「修」の上部らしきものが残る、また書き出しの「浼浼」は「々」を使っていない。 |
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また日本古代史家で金石文研究家の藪田嘉一郎︵[[1905年|1905]]~[[1976年|76]]︶は、さらに第1行第8句﹁航﹂を﹁杭﹂に、第2行第4句﹁慧﹂を﹁恵﹂に正す。
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* 「航竿」→「杭葦」 - 『帝王編年記』一本に「杭葦」とあり、「杭葦」という語は『[[詩経]]』にある。書き出しの「浼浼」も『詩経』から出た語。 |
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* ﹁慧﹂→﹁恵﹂ - ﹁慧﹂と﹁恵﹂は同意。藪田は﹁慧満﹂を人名と捉え、ならば﹁恵﹂だという。しかし﹁慧満﹂は普通名詞とも考えられる。
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* 「昔」→「苦」 - 「昔縁」では意味が通じない。「苦因」と同義の「苦縁」という語があり、それならば意味が通じる。 |
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2011年12月12日 (月) 21:30時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/90/Ujibashi_Danpi.jpg/220px-Ujibashi_Danpi.jpg)
宇治橋断碑︵うじばしだんぴ︶は、京都府宇治市橋寺放生院にある宇治橋架橋の由来を記した石碑。大化2年︵646年?︶に宇治橋を僧道昭が架橋したことを記している。日本最古の刻石文ではないかといわれるが、浄水寺南大門碑等との比較から碑自体は721年以後︵782年~806年︶に建てられたと考えられている。いつしか河川に転落したが、江戸時代の寛政年間︵1789年~1801年︶橋寺放生院の溝のなかから掘り出され、その首部三分の一のみが伝わる。1793年9月に尾張の人 中村維禎が﹃帝王編年紀﹄に載せた全文によって古法帖の文字をつらねてこれを補刻し、橋寺の庭に建て、裏面に由来を記した。刻文は名筆であるとされる。
碑文
﹃帝王編年記﹄所載の碑文は次のとおり。太字は断碑に残る箇所。 浼浼横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿 世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家 大化二年 丙午之歳 搆立此橋 済度人畜 即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁 補石の際に、第1行第3句﹁々﹂を﹁修﹂に、第1行第8句﹁竿﹂を﹁葦﹂に、第3行第8句﹁昔﹂を﹁苦﹂に改めている。また日本古代史家で金石文研究家の藪田嘉一郎︵1905~76︶は、さらに第1行第8句﹁航﹂を﹁杭﹂に、第2行第4句﹁慧﹂を﹁恵﹂に正す。その校正理由は、
●﹁々﹂→﹁修﹂- 断碑に﹁修﹂の上部らしきものが残る、また書き出しの﹁浼浼﹂は﹁々﹂を使っていない。
●﹁航竿﹂→﹁杭葦﹂ - ﹃帝王編年記﹄一本に﹁杭葦﹂とあり、﹁杭葦﹂という語は﹃詩経﹄にある。書き出しの﹁浼浼﹂も﹃詩経﹄から出た語。
●﹁慧﹂→﹁恵﹂ - ﹁慧﹂と﹁恵﹂は同意。藪田は﹁慧満﹂を人名と捉え、ならば﹁恵﹂だという。しかし﹁慧満﹂は普通名詞とも考えられる。
●﹁昔﹂→﹁苦﹂ - ﹁昔縁﹂では意味が通じない。﹁苦因﹂と同義の﹁苦縁﹂という語があり、それならば意味が通じる。