「宮沢賢治」を編集中
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[[ファイル:Miyazawa Kenji as a student of Morioka Middle School.jpg|thumb|200px|left|盛岡中学在学時の賢治]] |
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[[1909年]]︵明治42年︶4月、岩手県立盛岡中学校︵現・[[岩手県立盛岡第一高等学校|盛岡第一高等学校]]︶に入学。[[学生寮|寄宿舎]]﹁{{Ruby|自彊|じきょう}}寮﹂に入寮。祖父の喜助は商人の息子で跡継ぎの賢治に学問は不要という考えで、父の政次郎が説得して進学させた。家業の古着屋を嫌っていた賢治は将来を悲観し、成績は落ち込んでゆく{{sfn|作家読本|1989|p=25}}。鉱物採集や星座に熱中、[[岩手山]]、[[南昌山]]、[[鞍掛山 (岩手県)|鞍掛山]]など盛岡近在の山を歩き、大量の岩石標本を集めた{{sfn|作家読本|1989|pp=26-27}}。3年生の頃から[[石川啄木]]の影響を受けた[[短歌]]を制作{{sfn|堀尾|1991|p=54}}。[[1913年]]︵[[大正]]2年︶、4年生の時、二学期から交代した新しい舎監に生徒たちが夜中足を踏み鳴らすなどの嫌がらせを行ったため、4、5年生全員が退寮させられるという事件が発生。賢治は盛岡市北山の |
[[1909年]]︵明治42年︶4月、岩手県立盛岡中学校︵現・[[岩手県立盛岡第一高等学校|盛岡第一高等学校]]︶に入学。[[学生寮|寄宿舎]]﹁{{Ruby|自彊|じきょう}}寮﹂に入寮。祖父の喜助は商人の息子で跡継ぎの賢治に学問は不要という考えで、父の政次郎が説得して進学させた。家業の古着屋を嫌っていた賢治は将来を悲観し、成績は落ち込んでゆく{{sfn|作家読本|1989|p=25}}。鉱物採集や星座に熱中、[[岩手山]]、[[南昌山]]、[[鞍掛山 (岩手県)|鞍掛山]]など盛岡近在の山を歩き、大量の岩石標本を集めた{{sfn|作家読本|1989|pp=26-27}}。3年生の頃から[[石川啄木]]の影響を受けた[[短歌]]を制作{{sfn|堀尾|1991|p=54}}。[[1913年]]︵[[大正]]2年︶、4年生の時、二学期から交代した新しい舎監に生徒たちが夜中足を踏み鳴らすなどの嫌がらせを行ったため、4、5年生全員が退寮させられるという事件が発生。賢治は盛岡市北山の清養院に[[下宿]]する{{sfn|作家読本|1989|pp=34-35}}。
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[[1914年]]︵大正3年︶3月、盛岡中学卒業。4月、盛岡市岩手病院に入院、肥厚性[[鼻炎]]の手術を受ける。術後も熱が下がらず、[[発疹チフス]]の疑いで5月末まで入院。この時看病に当たった政次郎も感染して入院。自分の看病で2度も倒れた父に賢治は後までも負い目を感じていたという。入院中に出会った岩手病院の看護婦に思いを寄せ、退院後、両親に結婚したいと申し出たが﹁若すぎる﹂という理由で反対される{{sfn|作家読本|1989|p=36}}{{sfn|山下|2008|pp=52-53}}。政次郎は﹁あれはひどく早成なところがあって、困ったんじゃ……﹂と困惑した{{sfn|作家読本|1989|p=36}}。実家で店番や[[養蚕]]の手伝いで鬱々とした日々を過ごす賢治を見かねた政次郎は[[盛岡高等農林学校]]への進学を認める。賢治は今までと打って変わって、受験のため猛勉強に励んだ{{sfn|作家読本|1989|pp=37-38}}。同時期に、[[島地大等]]訳﹃漢和対照 [[妙法蓮華経]]﹄を読み、その中の﹁如来寿量品﹂に体が震えるほどの感銘を受ける{{sfn|堀尾|1991|p=69}}{{sfn|千葉|2014|p=86}}{{refnest|group="注釈"|千葉一幹は、賢治が﹁如来寿量品﹂の中の﹁[[法華七喩|良医病子]]﹂︵毒を飲んだ子供が父の作った[[解毒剤]]を飲めず、﹁父が死んだ﹂と嘘を聞かされ、正気に戻って薬を飲んだという[[寓話]]︶に自身を重ね、不幸は自分が飛躍する契機になると読み取ったのではないかと推測している{{sfn|千葉|2014|p=88-91}}。}}。
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[[1914年]]︵大正3年︶3月、盛岡中学卒業。4月、盛岡市岩手病院に入院、肥厚性[[鼻炎]]の手術を受ける。術後も熱が下がらず、[[発疹チフス]]の疑いで5月末まで入院。この時看病に当たった政次郎も感染して入院。自分の看病で2度も倒れた父に賢治は後までも負い目を感じていたという。入院中に出会った岩手病院の看護婦に思いを寄せ、退院後、両親に結婚したいと申し出たが﹁若すぎる﹂という理由で反対される{{sfn|作家読本|1989|p=36}}{{sfn|山下|2008|pp=52-53}}。政次郎は﹁あれはひどく早成なところがあって、困ったんじゃ……﹂と困惑した{{sfn|作家読本|1989|p=36}}。実家で店番や[[養蚕]]の手伝いで鬱々とした日々を過ごす賢治を見かねた政次郎は[[盛岡高等農林学校]]への進学を認める。賢治は今までと打って変わって、受験のため猛勉強に励んだ{{sfn|作家読本|1989|pp=37-38}}。同時期に、[[島地大等]]訳﹃漢和対照 [[妙法蓮華経]]﹄を読み、その中の﹁如来寿量品﹂に体が震えるほどの感銘を受ける{{sfn|堀尾|1991|p=69}}{{sfn|千葉|2014|p=86}}{{refnest|group="注釈"|千葉一幹は、賢治が﹁如来寿量品﹂の中の﹁[[法華七喩|良医病子]]﹂︵毒を飲んだ子供が父の作った[[解毒剤]]を飲めず、﹁父が死んだ﹂と嘘を聞かされ、正気に戻って薬を飲んだという[[寓話]]︶に自身を重ね、不幸は自分が飛躍する契機になると読み取ったのではないかと推測している{{sfn|千葉|2014|p=88-91}}。}}。
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