「宮沢賢治」を編集中
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=== 東北砕石工場技師、死 === |
=== 東北砕石工場技師、死 === |
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[[1930年]]︵昭和5年︶、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる{{sfn|堀尾|1991|p=287}}。5月、[[東磐井郡]]の[[陸中松川駅]]前にあった東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。鈴木は[[石灰岩]]とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画しており、賢治も賛同する{{sfn|堀尾|1991|p=371}}。
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[[1930年]]︵昭和5年︶、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる{{sfn|堀尾|1991|p=287}}。5月、[[東磐井郡]]の[[陸中松川駅]]前にあった東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。鈴木は[[石灰岩]]とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画しており、賢治も賛同する{{sfn|堀尾|1991|p=371}}。
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[[1931年]]︵昭和6年︶2月21日、東北砕石工場花巻出張所が開設。父の政次郎は病弱な賢治を外に出すのを心配し、工場に融資を行って花巻に出張所を作り、仕事をさせようとの考えだった{{sfn|堀尾|1991|p=379}}。しかし技師となった賢治は製品の改造、広告文の起草、製品の注文取り、販売などで東奔西走する{{sfn|作家読本|1989|p=182}}。 |
[[1931年]]︵昭和6年︶2月21日、東北砕石工場花巻出張所が開設。父の政次郎は病弱な賢治を外に出すのを心配し、工場に融資を行って花巻に出張所を作り、仕事をさせようとの考えだった{{sfn|堀尾|1991|p=379}}。しかし技師となった賢治は製品の改造、広告文の起草、製品の注文取り、販売などで東奔西走する{{sfn|作家読本|1989|p=182}}。農閑期、石灰は売れなくなる。そこで賢治は石灰を壁材料に転用することを考え、9月19日、40キログラムもの製品見本を鞄に詰めて上京する。翌20日、[[神田駿河台]]の旅館﹁八幡館﹂{{refnest|group="注釈"|跡地は[[日本大学カザルスホール|カザルスホール]]となり、その位置はホールの舞台中央付近と推測されている<ref>[http://www.kandagakkai.org/gallery/page.php?no=16 御茶ノ水スクエアA館] - NPO神田神田学会</ref>。}}に泊まるが高熱で倒れ、死を覚悟して、家族に[[遺書]]を書く{{sfn|千葉|2014|p=256-257}}。27日、最期の別れのつもりで父親に電話をかける。政次郎は東京の小林六太郎に頼み、翌日賢治は花巻に戻ってすぐ病臥生活となる。11月、手帳に﹃[[雨ニモマケズ]]﹄を書く{{sfn|作家読本|1989|p=191}}。
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[[1932年]]︵昭和7年︶3月﹃児童文学﹄第二冊に﹁[[グスコーブドリの伝記]]﹂発表。挿絵は[[棟方志功]]{{refnest|group="注釈"|のちに棟方はこの仕事の記憶がほとんどないと回想している{{sfn|作家読本|1989|p=195}}。}}。病床では文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む{{sfn|作家読本|1989|p=199}}。前年冬から医者にもかからず、薬は[[ビール]][[酵母]]と竹の皮を煎じたものを飲むだけだった{{sfn|作家読本|1989|p=198}}{{sfn|堀尾|1991|p=462}}。
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[[1932年]]︵昭和7年︶3月﹃児童文学﹄第二冊に﹁[[グスコーブドリの伝記]]﹂発表。挿絵は[[棟方志功]]{{refnest|group="注釈"|のちに棟方はこの仕事の記憶がほとんどないと回想している{{sfn|作家読本|1989|p=195}}。}}。病床では文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む{{sfn|作家読本|1989|p=199}}。前年冬から医者にもかからず、薬は[[ビール]][[酵母]]と竹の皮を煎じたものを飲むだけだった{{sfn|作家読本|1989|p=198}}{{sfn|堀尾|1991|p=462}}。
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