「宮沢賢治」を編集中
表示
この編集を取り消せます。
下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。
最新版 | 編集中の文章 | ||
44行目: | 44行目: | ||
[[ファイル:Miyazawa Kenji01s3200.jpg|thumb|250px|生家<br/>(賢治在世当時の建物は現存しない)]] |
[[ファイル:Miyazawa Kenji01s3200.jpg|thumb|250px|生家<br/>(賢治在世当時の建物は現存しない)]] |
||
[[ファイル:Miyazawa Kenji and Toshi.jpg|thumb|200px|1902年の小正月、 5歳の賢治(右)と3歳のトシ(左)]] |
[[ファイル:Miyazawa Kenji and Toshi.jpg|thumb|200px|1902年の小正月、 5歳の賢治(右)と3歳のトシ(左)]] |
||
[[1896年]]︵[[明治]]29年︶8月27日、父[[宮澤政次郎]]と母イチの長男として |
[[1896年]]︵[[明治]]29年︶8月27日、父[[宮澤政次郎]]と母イチの長男として[[花巻川口町]]︵現‥[[花巻市]]︶に生まれる。戸籍上の誕生日は8月1日で生前の賢治も[[履歴書]]に1日と書いているが、27日と推定されている{{refnest|group="注釈"|佐藤隆房は[[旧暦]]7月19日出生、旧暦8月1日に旧暦で届けを出したための間違いと推測している{{sfn|作家読本|1989|p=12}}。}}。母イチの実家、鍛冶町の宮澤善治家で出生したが、5日後の8月31日、[[秋田県|秋田県東部]]を震源とする[[陸羽地震]]が発生。イチは賢治を収容した[[エジコ]] (乳幼児を入れ守る籠) を両手で抱えながら上体を覆って[[念仏]]を唱えていたという{{sfn|堀尾|1991|pp=25}}。政次郎は仕事で旅行中だったため、政次郎の弟の治三郎が﹁賢治﹂と名付けた{{sfn|作家読本|1989|p=12}}。
|
||
3歳の頃、婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが﹁[[正信偈]]﹂﹁[[白骨の御文章]]﹂を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという{{sfn|作家読本|1989|p=14}}。[[1902年]]︵明治35年︶、[[赤痢]]で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、[[大腸カタル]]を起こして胃腸が生涯弱くなった{{sfn|作家読本|1989|p=13}}{{sfn|千葉|2014|p=38}}。[[1903年]]︵明治36年︶、花巻川口[[尋常小学校]]︵2年後に花城尋常小学校へ改名︶に入学。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を[[学級担任|担任]]した八木英三は生徒たちに﹃未だ見ぬ親﹄︵[[五来素川]]の[[翻案]]による[[エクトール・アンリ・マロ|マロ]]作﹃[[家なき子]]﹄︶や﹃海に塩のあるわけ﹄︵[[民話]]﹃[[海の底の臼|海の水はなぜ辛い]]﹄︶などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた{{sfn|作家読本|1989|p=17}}。後に賢治は八木と再会した折に﹁私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです﹂と語っている{{sfn|堀尾|1991|p=29}}。[[鉱物]]採集、[[昆虫]]の[[標本]]づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から﹁石コ賢さん﹂とあだ名をつけられる{{sfn|堀尾|1991|p=31}}。父の主催する花巻[[仏教]]会の夏季講習会にも参加、招いた講師の[[暁烏敏]]の世話係もした{{sfn|作家読本|1989|p=19}}。
|
3歳の頃、婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが﹁[[正信偈]]﹂﹁[[白骨の御文章]]﹂を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという{{sfn|作家読本|1989|p=14}}。[[1902年]]︵明治35年︶、[[赤痢]]で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、[[大腸カタル]]を起こして胃腸が生涯弱くなった{{sfn|作家読本|1989|p=13}}{{sfn|千葉|2014|p=38}}。[[1903年]]︵明治36年︶、花巻川口[[尋常小学校]]︵2年後に花城尋常小学校へ改名︶に入学。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を[[学級担任|担任]]した八木英三は生徒たちに﹃未だ見ぬ親﹄︵[[五来素川]]の[[翻案]]による[[エクトール・アンリ・マロ|マロ]]作﹃[[家なき子]]﹄︶や﹃海に塩のあるわけ﹄︵[[民話]]﹃[[海の底の臼|海の水はなぜ辛い]]﹄︶などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた{{sfn|作家読本|1989|p=17}}。後に賢治は八木と再会した折に﹁私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです﹂と語っている{{sfn|堀尾|1991|p=29}}。[[鉱物]]採集、[[昆虫]]の[[標本]]づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から﹁石コ賢さん﹂とあだ名をつけられる{{sfn|堀尾|1991|p=31}}。父の主催する花巻[[仏教]]会の夏季講習会にも参加、招いた講師の[[暁烏敏]]の世話係もした{{sfn|作家読本|1989|p=19}}。
|