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宮沢賢治」を編集中

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=== 羅須地人協会 ===

=== 羅須地人協会 ===

[[ファイル:Rasuchijin.jpg|thumb|250px|羅須地人協会に使われた建物([[岩手県立花巻農業高等学校|花巻農業高校]]内)]]

[[ファイル:Rasuchijin.jpg|thumb|250px|羅須地人協会に使われた建物([[岩手県立花巻農業高等学校|花巻農業高校]]内)]]


[[1926]]15331退{{sfn||1989|p=119}}413{{sfn||1989|p=112}}4[[]][[]]{{sfn||2014|pp=246-248}}{{sfn||2008|pp=138-139}}<ref>{{Cite web||url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/47028_46742.html |author=|title=  |publisher=|accessdate=2016-10-21}}</ref>[[]][[]]6稿<ref>{{Cite web||url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html|author=|title= |publisher=|accessdate=2016-10-21}}</ref>

[[1926]]15331退{{sfn||1989|p=119}}413{{sfn||1989|p=112}}4[[]][[]]{{sfn||2014|pp=246-248}}{{sfn||2008|pp=138-139}}<ref>{{Cite web |url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/47028_46742.html |author=|title=  |publisher=|accessdate=2016-10-21}}</ref>[[]][[]]6稿<ref>{{Cite web |url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html|author=|title= |publisher=|accessdate=2016-10-21}}</ref>

<ref>{{Cite web||url=http://why.kenji.ne.jp/sonota1/soredeha.html|author=|title=|publisher=|accessdate=2016-10-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161028000158/http://why.kenji.ne.jp:80/sonota1/soredeha.html |archivedate=2016-10-28}}</ref>

<ref>{{Cite web |url=http://why.kenji.ne.jp/sonota1/soredeha.html|author=|title=|publisher=|accessdate=2016-10-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161028000158/http://why.kenji.ne.jp:80/sonota1/soredeha.html |archivedate=2016-10-28}}</ref>


12月2日、上京。[[タイプライター]]、[[チェロ|セロ]]、[[オルガン]]、[[エスペラント|エスペラント語]]を習い、観劇をする。資金は父親頼みだった。18日、[[高村光太郎]]を訪ねている。年末帰花{{sfn|作家読本|1989|pp=134-136}}。

12月2日、上京。[[タイプライター]]、[[チェロ|セロ]]、[[オルガン]]、[[エスペラント|エスペラント語]]を習い、観劇をする。資金は父親頼みだった。18日、[[高村光太郎]]を訪ねている。年末帰花{{sfn|作家読本|1989|pp=134-136}}。

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死去から49年後の1982年、花巻市矢沢の胡四王山に花巻市立宮沢賢治記念館が開館している<ref>[http://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/501/miyazawakenji/p004116.html 宮沢賢治記念館] - 花巻市</ref>。

死去から49年後の1982年、花巻市矢沢の胡四王山に花巻市立宮沢賢治記念館が開館している<ref>[http://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/501/miyazawakenji/p004116.html 宮沢賢治記念館] - 花巻市</ref>。




稿調稿調[[]]稿120094 <ref>{{Cite web||url=http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html|title= |publisher=asahi.com|date=2009-4-8|accessdate=2016-10-13|archivedate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161013104434/http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html}}</ref>

草稿調査によって、賢治の遺稿はほぼ調べ尽くされたと見られていたが、生家の[[土蔵]]から未発表の詩の草稿1枚(地形図の裏に書かれたもの)が発見されたことが2009年4月に公表され『新校本 宮澤賢治全集』別巻(筑摩書房)に収録された<ref>{{Cite web|url=http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html|title=宮沢賢治、地図の裏に未発表詩 三十数年ぶりの新作|publisher=asahi.com|date=2009-4-8|accessdate=2016-10-13|archivedate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161013104434/http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html}}</ref>。



広く作品世界を覆っているのは、作者自らの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ[[贖罪]]感や[[自己犠牲]]精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。その主な契機としては[[浄土真宗]]の[[暁烏敏]]らの講話・説教が挙げられる。特に18歳の時に同宗の学僧である[[島地大等]]編訳の[[法華経]]を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより、賢治は後に[[国粋主義]]的な法華宗教団「国柱会」に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素は、これらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は、以後の作品に特有の陰影を加えた。

広く作品世界を覆っているのは、作者自らの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ[[贖罪]]感や[[自己犠牲]]精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。その主な契機としては[[浄土真宗]]の[[暁烏敏]]らの講話・説教が挙げられる。特に18歳の時に同宗の学僧である[[島地大等]]編訳の[[法華経]]を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより、賢治は後に[[国粋主義]]的な法華宗教団「国柱会」に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素は、これらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は、以後の作品に特有の陰影を加えた。

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賢治の作品には[[コスモポリタニズム|世界主義]]的な雰囲気があり、岩手県という[[郷土愛|郷土への愛着]]こそあれ、[[軍国主義]]や[[ナショナリズム|民族主義]]的な要素を直接反映した作品はほとんど見られない。ただ、24歳の時に国柱会に入信してから、時期によって活動、傾倒の度合いに差はあるものの、生涯その一員であり続けたため、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時の[[ファシズム]]的風潮との関連も議論されている。晩年には遺作『[[銀河鉄道の夜]]』に見られるように[[キリスト教]]的な[[救済]]信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている<ref>{{cite video |url=http://www.youtube.com/watch?v=OQnEDI-QYhA&list=PL29809B3CE9F5C44B |title=宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか |people=[[正木晃]](話者)|publisher=日蓮宗 |date=2012-08-26}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[定方晟]] |title=『銀河鉄道の夜』と法華経 |journal=東海大学紀要. 文学部 |volume=64 |pages=110-88 |publisher=東海大学文学部 |location=東京|date=1995|url=https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC20001999 |issn=05636760 |naid=110001048402 |accessdate=2016-09-21}}110頁。</ref>。この宗教的思想と自然科学の融合した独自の世界観は[[第二次世界大戦]]後に日本国外の研究者からも評価され、[[1996年]]9月、宮沢賢治生誕100周年を記念して花巻市にて開催された宮沢賢治国際学会では20ヶ国程の研究者、翻訳者が集ったことを[[歴史家]]の[[色川大吉]]は著書で言及している<ref>{{Citation|和書|last=色川|first=大吉|title=歴史家の見た宮沢賢治の光と闇|journal=色川大吉歴史論集:近代の光と闇|publisher=日本経済評論社|date=2013-01-18|page=2|isbn=978-4-8188-2254-2|ncid=BB11426978}}</ref>。

賢治の作品には[[コスモポリタニズム|世界主義]]的な雰囲気があり、岩手県という[[郷土愛|郷土への愛着]]こそあれ、[[軍国主義]]や[[ナショナリズム|民族主義]]的な要素を直接反映した作品はほとんど見られない。ただ、24歳の時に国柱会に入信してから、時期によって活動、傾倒の度合いに差はあるものの、生涯その一員であり続けたため、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時の[[ファシズム]]的風潮との関連も議論されている。晩年には遺作『[[銀河鉄道の夜]]』に見られるように[[キリスト教]]的な[[救済]]信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている<ref>{{cite video |url=http://www.youtube.com/watch?v=OQnEDI-QYhA&list=PL29809B3CE9F5C44B |title=宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか |people=[[正木晃]](話者)|publisher=日蓮宗 |date=2012-08-26}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[定方晟]] |title=『銀河鉄道の夜』と法華経 |journal=東海大学紀要. 文学部 |volume=64 |pages=110-88 |publisher=東海大学文学部 |location=東京|date=1995|url=https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC20001999 |issn=05636760 |naid=110001048402 |accessdate=2016-09-21}}110頁。</ref>。この宗教的思想と自然科学の融合した独自の世界観は[[第二次世界大戦]]後に日本国外の研究者からも評価され、[[1996年]]9月、宮沢賢治生誕100周年を記念して花巻市にて開催された宮沢賢治国際学会では20ヶ国程の研究者、翻訳者が集ったことを[[歴史家]]の[[色川大吉]]は著書で言及している<ref>{{Citation|和書|last=色川|first=大吉|title=歴史家の見た宮沢賢治の光と闇|journal=色川大吉歴史論集:近代の光と闇|publisher=日本経済評論社|date=2013-01-18|page=2|isbn=978-4-8188-2254-2|ncid=BB11426978}}</ref>。



賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hh.e-mansion.com/~sibazyun/ali-trad/poe-miyazawa0.htm|title=宮沢賢治・自訳エスペラント詩集 |accessdate=2016-09-03}}(このサイトには公表状態でなく、校訂された作品が掲載されている)</ref>。

賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である<ref>{{Cite web|url=http://www.hh.e-mansion.com/~sibazyun/ali-trad/poe-miyazawa0.htm|title=宮沢賢治・自訳エスペラント詩集 |accessdate=2016-09-03}}(このサイトには公表状態でなく、校訂された作品が掲載されている)</ref>。



[[1998年]]頃に、[[山折哲雄]]がある[[小学校]]で授業をした際に、賢治の3つの作品『[[風の又三郎]]』『[[注文の多い料理店]]』『[[銀河鉄道の夜]]』を示し、これらに共通する問題があり、それは何だと子供たちに問い、自らは[[風]]がすごく大きな役割を果たしている、この3つの童話の中心的大問題は「風」だと力説した。この時、子供の一人が「[[猫]]」だと言おうとしたが、山折が「風」と言ったのであれっと思ったが、山折の話を聞く内にやっぱり「風」だと思った。ところがこの[[エピソード]]を聞いた[[河合隼雄]]は、賢治作品における猫の役割の重要性をずっと考えていたため、「猫と風」というヒントから、風のつかまえどころの無さと優しさと荒々しさの同居、少しの隙間でも入り込んでくる点など猫との共通点を感じ、賢治作品に登場する猫は、正にそのような性格を持って登場すると論じている。賢治の『猫』という短編には「私は猫は大嫌いです。猫のからだの中を考えると吐きそうになります」という一節が見られる<ref name="neko">[[河合隼雄]] 『猫だましい』 新潮社、2000年5月20日。{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。しかし、この「猫」は[[高瀬露]]が転嫁された表現であり、実際に賢治が猫嫌いだったわけではないという指摘もある([[ますむらひろし]]著『イーハトーブ乱入記―僕の宮沢賢治体験』{{要ページ番号|date=2019年5月}})。

[[1998年]]頃に、[[山折哲雄]]がある[[小学校]]で授業をした際に、賢治の3つの作品『[[風の又三郎]]』『[[注文の多い料理店]]』『[[銀河鉄道の夜]]』を示し、これらに共通する問題があり、それは何だと子供たちに問い、自らは[[風]]がすごく大きな役割を果たしている、この3つの童話の中心的大問題は「風」だと力説した。この時、子供の一人が「[[猫]]」だと言おうとしたが、山折が「風」と言ったのであれっと思ったが、山折の話を聞く内にやっぱり「風」だと思った。ところがこの[[エピソード]]を聞いた[[河合隼雄]]は、賢治作品における猫の役割の重要性をずっと考えていたため、「猫と風」というヒントから、風のつかまえどころの無さと優しさと荒々しさの同居、少しの隙間でも入り込んでくる点など猫との共通点を感じ、賢治作品に登場する猫は、正にそのような性格を持って登場すると論じている。賢治の『猫』という短編には「私は猫は大嫌いです。猫のからだの中を考えると吐きそうになります」という一節が見られる<ref name="neko">[[河合隼雄]] 『猫だましい』 新潮社、2000年5月20日。{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。しかし、この「猫」は[[高瀬露]]が転嫁された表現であり、実際に賢治が猫嫌いだったわけではないという指摘もある([[ますむらひろし]]著『イーハトーブ乱入記―僕の宮沢賢治体験』{{要ページ番号|date=2019年5月}})。

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=== 幼少期の伝説 ===

=== 幼少期の伝説 ===

{{要出典範囲|賢治には多くの「伝説」が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の[[神格化]]が甚だしいと指摘されている。こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。|date=2021-07}}伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと、[[山下聖美]]は推測している{{sfn|山下|2008|p=30-34}}。現代では[[吉田司]]の『宮沢賢治殺人事件』のように[[聖人]]イメージを破壊するという著作も現れている{{sfn|千葉|2014|pp=2-3}}。

{{要出典範囲|賢治には多くの「伝説」が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の[[神格化]]が甚だしいと指摘されている。こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。|date=2021-07}}伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと、[[山下聖美]]は推測している{{sfn|山下|2008|p=30-34}}。現代では[[吉田司]]の『宮沢賢治殺人事件』のように[[聖人]]イメージを破壊するという著作も現れている{{sfn|千葉|2014|pp=2-3}}。

* 生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に[[明治三陸地震|三陸地震津波]]が、誕生直後にも[[陸羽地震]]が発生した。清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、「それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった(兄賢治の生涯)」と述懐している{{sfn|作家読本|1989|p=11}}。また、1933年(没年)の3月3日に「[[昭和三陸地震|三陸沖地震]]」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実([[1913年]]-[[1996年]])へ宛てた見舞いの礼状<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kenji.gr.jp/kaiho/kaiho31/index.html#L |title=詩人大木実あて書簡 宮沢賢治学会・会報31号 |publisher=宮沢賢治学会 |accessdate=2010-11-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060207002502/http://kenji.gr.jp/kaiho/kaiho31/index.html |archivedate=2006-2-7 |deadlinkdate=2014-12-18}}</ref>には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている<ref>{{Cite book |和書 |author=勉誠出版株式会社 |authorlink= |date=2010-07 |title=月光 |volume=2 |publisher=勉誠出版 |page= |isbn=978-4-585-05226-5}}{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。

* 生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に[[明治三陸地震|三陸地震津波]]が、誕生直後にも[[陸羽地震]]が発生した。清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、「それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった(兄賢治の生涯)」と述懐している{{sfn|作家読本|1989|p=11}}。また、1933年(没年)の3月3日に「[[昭和三陸地震|三陸沖地震]]」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実([[1913年]]-[[1996年]])へ宛てた見舞いの礼状<ref>{{Cite web |url=http://www.kenji.gr.jp/kaiho/kaiho31/index.html#L |title=詩人大木実あて書簡 宮沢賢治学会・会報31号 |publisher=宮沢賢治学会 |accessdate=2010-11-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060207002502/http://kenji.gr.jp/kaiho/kaiho31/index.html |archivedate=2006-2-7 |deadlinkdate=2014-12-18}}</ref>には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている<ref>{{Cite book |和書 |author=勉誠出版株式会社 |authorlink= |date=2010-07 |title=月光 |volume=2 |publisher=勉誠出版 |page= |isbn=978-4-585-05226-5}}{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。

* 尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ「メッカシ(めかしこんでいる)」とからかわれていた。賢治は間に入り「おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ」とかばった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。

* 尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ「メッカシ(めかしこんでいる)」とからかわれていた。賢治は間に入り「おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ」とかばった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。

* [[めんこ|メンコ]]で遊んでいた時、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は「いたかべ、いたかべ」と言いながらその指を吸ってやった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。

* [[めんこ|メンコ]]で遊んでいた時、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は「いたかべ、いたかべ」と言いながらその指を吸ってやった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。

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=== 食生活と菜食主義 ===

=== 食生活と菜食主義 ===


[[]][[]]<ref>[http://ihatov.la.coocan.jp/bizi.htm ]</ref>191875[[|]]{{sfn||1991|p=96}}519[[]][[]]<ref>{{Cite web||url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/63.html |title=1918519  |publisher= |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160916120804/http://why.kenji.ne.jp:80/shiryo/shokan/63.html |archivedate=2016-09-16}}</ref>[[]]宿[[]]{{sfn||1991|p=103}}[[]][[]][[]]{{sfn||1989|p=68}}[[]][[]][[]][[]]{{sfn||1991|p=456}}192110811<ref>{{Cite web||url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |title=1921811 |publisher= |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141223092757/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |archivedate=2014-12-23}}</ref>

[[日蓮]]系教団では[[末法無戒]]を説くため菜食の必要は無いのだが<ref>鎌田としき「[http://ihatov.la.coocan.jp/bizi.htm 宮沢賢治「ビヂテリアン大祭」考]」</ref>、賢治は法華経信仰に入った後、盛岡高農研究生になった1918年(大正7年)から5年間[[菜食主義|菜食生活]]をした{{sfn|堀尾|1991|p=96}}。5月19日付の保阪嘉内に宛てた手紙では、[[刺身]]や[[茶碗蒸し]]を少量食べた後、食べられる生き物に同情する気持ちを綴っている<ref>{{Cite web|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/63.html |title=1918年5月19日 保阪嘉内あて 封書(封筒ナシ)|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160916120804/http://why.kenji.ne.jp:80/shiryo/shokan/63.html |archivedate=2016-09-16}}</ref>。[[東京]]でトシの看病をするため宿泊していた旅館「雲台館」では、賢治のため[[精進料理]]を出してくれたという{{sfn|堀尾|1991|p=103}}。家出上京中は、[[芋]]と[[豆腐]]と[[油揚げ]]ばかり食べ{{sfn|作家読本|1989|p=68}}、[[脚気]]になった時は、[[蕎麦がき]]や[[麦飯]]、[[冬瓜]]の汁を飲んだ{{sfn|堀尾|1991|p=456}}。1921年(大正10年)8月11日付の関徳弥宛の手紙では脚気の原因を肉食のせいにしている<ref>{{Cite web|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |title=(1921年8月11日)関徳彌あて 封書|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141223092757/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |archivedate=2014-12-23}}</ref>。




[[]][[]][[]][[]]<ref>{{Cite web||url=http://www.yabuya.jp/ybyhpg3.htm |title= |publisher=  |accessdate=2016-09-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170702013605/http://www.yabuya.jp:80/ybyhpg3.htm |archivedate=2017-01-02}}</ref>[[]][[]]{{sfn||2008|pp=156-157}}[[]][[]][[]]{{sfn||1989|p=97}}[[]][[]]{{sfn||1991|p=214}}

農学校教員時代は菜食にこだわらず、同僚や知人と[[外食]]を楽しんだ。花巻の蕎麦屋「やぶ屋」を「ブッシュ」と呼び、よく通っていた。[[天ぷら]][[蕎麦]]と[[サイダー]]を一緒に注文するのが定番だった<ref>{{Cite web|url=http://www.yabuya.jp/ybyhpg3.htm |title=宮澤賢治とやぶ屋 |publisher=岩手花巻名物わんこそば やぶ屋 |accessdate=2016-09-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170702013605/http://www.yabuya.jp:80/ybyhpg3.htm |archivedate=2017-01-02}}</ref>。また[[鰻丼]]や[[天丼]]も好物だったという{{sfn|山下|2008|pp=156-157}}。自分から進んで[[酒]]を飲むことはなかったが、付き合いで酒をすすめられると[[水]]でも飲むように飲み干して返盃した。時に[[たばこ]]を吸うこともあった{{sfn|作家読本|1989|p=97}}。また教員仲間が集まった時、[[藤原嘉藤治]]から「人間は物の命を食って生きている。他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか。」と問いかけられた答えとして『[[ビジテリアン大祭]]』を書いている{{sfn|堀尾|1991|p=214}}。




[[]][[]][[]][[]][[]]{{sfn||1989|p=142}}{{sfn||2008|pp=152-153}}[[]][[]]{{sfn||2014|pp=36-30}}[[]][[]]<ref>{{Cite web||url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html|title=193261 |publisher= |accessdate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161014060119/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html |archivedate=2016-10-14}}</ref>[[]][[]]{{sfn||1991|p=459-462}}

羅須地人協会時代の自炊は極端な粗食だった。[[ご飯]]はまとめて炊いてザルに移して[[井戸]]の中に吊り下げて置き、冬は凍ったまま食べた。[[おかず]]は油揚げや[[漬物]]、[[トマト]]などだった{{sfn|作家読本|1989|p=142}}{{sfn|山下|2008|pp=152-153}}。賢治の体を心配した母のイチが[[小豆]]を入れた[[ひっつみ]]を届けたことがあるが、受け取らなかった{{sfn|千葉|2014|pp=36-30}}。急性肺炎で倒れ病臥生活になっても菜食はやめず、[[鶏卵]]も[[牛乳]]も拒否した<ref>{{Cite web|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html|title=1932年6月1日(森佐一あて) 下書|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161014060119/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html |archivedate=2016-10-14}}</ref>。イチが[[鯉]]の生き肝が肺炎に効くと聞いて、[[オブラート]]に包み薬と偽って飲ませたことがあった。弟の清六から中身を聞き出した賢治は涙を流し、「生き物の命をとるくらいならおれは死んだほうがいい」「これからは決してそんなことをしてくれるな」と真っ青な顔で言い、最期まで菜食主義をつらぬいた{{sfn|堀尾|1991|p=459-462}}。



=== 恋愛・性愛観 ===

=== 恋愛・性愛観 ===

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*:[[太陽と風の家]]

*:[[太陽と風の家]]

* 斉藤征義記念 宮沢賢治ライブラリ「虔十庵(けんじゅうあん)」

* 斉藤征義記念 宮沢賢治ライブラリ「虔十庵(けんじゅうあん)」


*: 17002023521<ref name="hokkaido-np20230522">{{Cite web||title=  1700 |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/849527/ |website= |access-date=2023-05-22 |language=ja}}</ref><ref name="hokkaido-np20230522" />20204120221225<ref>{{Cite web||title= No.131 |url=http://www.tomakomai-lib.jp/wp-content/uploads/2020/05/papyrus131.pdf |website= |access-date=2022-12-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web||title=  |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/780541/ |website= |access-date=2022-12-28 |language=ja}}</ref>

*: 17002023521<ref name="hokkaido-np20230522">{{Cite web |title=  1700 |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/849527/ |website= |access-date=2023-05-22 |language=ja}}</ref><ref name="hokkaido-np20230522" />20204120221225<ref>{{Cite web |title= No.131 |url=http://www.tomakomai-lib.jp/wp-content/uploads/2020/05/papyrus131.pdf |website= |access-date=2022-12-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=  |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/780541/ |website= |access-date=2022-12-28 |language=ja}}</ref>


== 関連項目 ==

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  • 宮沢賢治: タイトル、サイトリンク、Some statements、その他、説明: ja

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