「富永仲基」を編集中
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15歳ころまで、懐徳堂で弟の富永定堅とともに初代学主[[三宅石庵]]に[[儒学]]を学ぶ。若くして『説蔽』(せつへい、現存せず)を著し<ref name="mizuta">[[水田紀久]] 「富永仲基 とみながなかもと」[[世界大百科事典]]</ref>、[[儒教]]を批判したため破門されたというが、これは富永を批判する仏教僧側からの主張であるので事実としては疑われている。その後[[田中桐江]]のもとで詩文を修め、また20歳のころ家を出て[[宇治市|宇治]]の黄檗山[[萬福寺]]で[[一切経]]の校合に従事し、[[黄檗宗]]の[[仏典]]の研究に励むなか、仏教に対する批判力を培っていった<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E4%BB%B2%E5%9F%BA/ 富永仲基(とみながなかもと)]{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }} 日本大百科全書(小学館)</ref>。 |
15歳ころまで、懐徳堂で弟の富永定堅とともに初代学主[[三宅石庵]]に[[儒学]]を学ぶ。若くして『説蔽』(せつへい、現存せず)を著し<ref name="mizuta">[[水田紀久]] 「富永仲基 とみながなかもと」[[世界大百科事典]]</ref>、[[儒教]]を批判したため破門されたというが、これは富永を批判する仏教僧側からの主張であるので事実としては疑われている。その後[[田中桐江]]のもとで詩文を修め、また20歳のころ家を出て[[宇治市|宇治]]の黄檗山[[萬福寺]]で[[一切経]]の校合に従事し、[[黄檗宗]]の[[仏典]]の研究に励むなか、仏教に対する批判力を培っていった<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E4%BB%B2%E5%9F%BA/ 富永仲基(とみながなかもと)]{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }} 日本大百科全書(小学館)</ref>。 |
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[[元文]]3年︵[[1738年]]︶、24歳で、﹃[[翁の文]]﹄(おきなのふみ)を著述。のち延享2年︵[[1745年]]︶仏教思想の批判的研究書﹃[[出定後語]]﹄(しゅつじょうごご、しゅつじょうこうご)を刊行<ref>[ |
[[元文]]3年︵[[1738年]]︶、24歳で、﹃[[翁の文]]﹄(おきなのふみ)を著述。のち延享2年︵[[1745年]]︶仏教思想の批判的研究書﹃[[出定後語]]﹄(しゅつじょうごご、しゅつじょうこうご)を刊行<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E4%BB%B2%E5%9F%BA 富永仲基︻とみなが-なかもと︼]デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説</ref>し、独特の[[大乗非仏説]]︵[[法華経]]、[[般若経]]など、いわゆる[[大乗仏教]]の経典は[[釈迦]]の言行ではなく、後世の産物という主張︶を唱えた。翌年、32歳で死去した。
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富永の説で、特筆すべき第一は、後発の学説は必ず先発の学説よりもさかのぼってより古い時代に起源を求めるという<ref name="web"/>﹁'''[[加上説|加上]]'''﹂︵かじょう︶の考え方にあり、その根底に﹁[[善]]﹂があること、これが即ち聖と俗とを区別する根本であるとする点にある︵﹃出定後語﹄参照︶。この説は[[本居宣長]]、後には[[内藤湖南]]や[[村上専精]]により評価された。
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富永の説で、特筆すべき第一は、後発の学説は必ず先発の学説よりもさかのぼってより古い時代に起源を求めるという<ref name="web"/>﹁'''[[加上説|加上]]'''﹂︵かじょう︶の考え方にあり、その根底に﹁[[善]]﹂があること、これが即ち聖と俗とを区別する根本であるとする点にある︵﹃出定後語﹄参照︶。この説は[[本居宣長]]、後には[[内藤湖南]]や[[村上専精]]により評価された。
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