「小倉金之助」を編集中
この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。
最新版 | 編集中の文章 | ||
36行目: | 36行目: | ||
[[1905年]]︵明治38年︶、[[東京物理学校]]︵現・[[東京理科大学]]︶を卒業。[[東京大学#沿革|東京帝国大学]]理科大学︵現・[[東京大学大学院理学系研究科・理学部|東京大学理学部]]︶化学選科に入学するが、家業を継ぐために中退し、山形に戻る。
|
[[1905年]]︵明治38年︶、[[東京物理学校]]︵現・[[東京理科大学]]︶を卒業。[[東京大学#沿革|東京帝国大学]]理科大学︵現・[[東京大学大学院理学系研究科・理学部|東京大学理学部]]︶化学選科に入学するが、家業を継ぐために中退し、山形に戻る。
|
||
[[林鶴一]]のもとで数学を学び、[[1911年]]︵明治44年︶[[東北大学#沿革|東北帝国大学]]の助手となる。[[1916年]]︵大正5年︶に[[微分幾何]]の研究で、[[博士︵理学︶|理学博士]]の学位を取得<ref name="kotobank">{{Cite web |
[[林鶴一]]のもとで数学を学び、[[1911年]]︵明治44年︶[[東北大学#沿革|東北帝国大学]]の助手となる。[[1916年]]︵大正5年︶に[[微分幾何]]の研究で、[[博士︵理学︶|理学博士]]の学位を取得<ref name="kotobank">{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/小倉金之助-40088#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88|title=おぐらきんのすけ︻小倉金之助︼|publisher=[[世界大百科事典]] 第2版︵[[コトバンク]]︶|accessdate=2019-05-26}}</ref>。
|
||
[[1917年]](大正6年)から[[大阪医科大学 (大阪市)|大阪医科大学]](現・[[大阪大学大学院医学系研究科・医学部|大阪大学医学部]])[[塩見理化学研究所]]研究員。[[1919年]](大正8年)から3年間渡欧し、1920年(大正9年)[[ストラスブール]]の[[国際数学者会議]]では、[[類体論]]を発表した[[高木貞治]]に随行し、自身も補完法について講演<ref name=":ICM">[https://www.mathunion.org/icm-plenary-and-invited-speakers?combine=Ogura ICM Plenary and Invited Speakers 国際数学者連合公式サイト(英文)]</ref>を行っている。[[1925年]](大正14年)に塩見理化学研究所長、大阪医科大学の教授となった。[[1932年]](昭和7年)には[[唯物論研究会]]の発起人の一人となる。[[1936年]](昭和11年)に「自然科学者の任務」を発表、[[軍国主義]]に反対した。[[1937年]](昭和12年)に塩見理化学研究所を辞し、著作活動に専念する。[[1940年]](昭和15年)から[[1943年]](昭和18年)まで東京物理学校理事長。[[1946年]](昭和21年)に設立された[[民主主義科学者協会]]会長を務めた。[[1948年]](昭和23年)から[[日本科学史学会]]会長、[[1962年]](昭和37年)から[[日本数学史学会]]会長を務めた。 |
[[1917年]](大正6年)から[[大阪医科大学 (大阪市)|大阪医科大学]](現・[[大阪大学大学院医学系研究科・医学部|大阪大学医学部]])[[塩見理化学研究所]]研究員。[[1919年]](大正8年)から3年間渡欧し、1920年(大正9年)[[ストラスブール]]の[[国際数学者会議]]では、[[類体論]]を発表した[[高木貞治]]に随行し、自身も補完法について講演<ref name=":ICM">[https://www.mathunion.org/icm-plenary-and-invited-speakers?combine=Ogura ICM Plenary and Invited Speakers 国際数学者連合公式サイト(英文)]</ref>を行っている。[[1925年]](大正14年)に塩見理化学研究所長、大阪医科大学の教授となった。[[1932年]](昭和7年)には[[唯物論研究会]]の発起人の一人となる。[[1936年]](昭和11年)に「自然科学者の任務」を発表、[[軍国主義]]に反対した。[[1937年]](昭和12年)に塩見理化学研究所を辞し、著作活動に専念する。[[1940年]](昭和15年)から[[1943年]](昭和18年)まで東京物理学校理事長。[[1946年]](昭和21年)に設立された[[民主主義科学者協会]]会長を務めた。[[1948年]](昭和23年)から[[日本科学史学会]]会長、[[1962年]](昭和37年)から[[日本数学史学会]]会長を務めた。 |