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'''尹良親王'''︵ゆきよししんのう/これなが―/ただなが―、[[正平 (日本)|正平]]19年/[[貞治]]3年︵[[1364年]]︶<ref>﹃[[南朝編年記略]]﹄・﹃[[南朝公卿補任]]﹄記載の年齢から逆算。ただし、﹃氷室系譜﹄などは、正平9年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]︵[[1354年]][[7月25日]]︶の生誕とする。</ref>? - [[応永]]31年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]︵[[1424年]][[9月7日]]︶?︶は、﹃[[浪合記]]﹄﹃[[信濃宮伝]]﹄などの[[軍記物|軍記]]に見える[[南朝 (日本)|南朝]]の[[皇族]]。それらの記すところによれば、[[後醍醐天皇]]の孫にして、[[中務卿]][[宗良親王]]の皇子であり、母は井伊道政の女<ref name="a">異説には、[[知久敦貞]]の女︵﹃[[南山巡狩録]]﹄︶や[[香坂高宗]]の妹・紀伊后︵[[大鹿村]]の伝承︶とする。また、この知久氏の女を親王の[[乳母]]とする系図もある。</ref>とされる︵﹃纂輯御系図﹄﹃浪合記﹄﹃井伊家系図﹄等︶。父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられるが、その内容の信憑性が極めて乏しいため、[[歴史学]]の立場からは創作上の人物とされている<ref name="#1">黒河内谷右衛門﹃宗良親王全集﹄︵甲陽書房、1988年︶</ref>。'''源尹良'''とも。
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'''尹良親王'''︵ゆきよししんのう/これなが―/ただなが―、[[正平 (日本)|正平]]19年/[[貞治]]3年︵[[1364年]]︶<ref>﹃[[南朝編年記略]]﹄・﹃[[南朝公卿補任]]﹄記載の年齢から逆算。ただし、﹃氷室系譜﹄などは、正平9年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]︵[[1354年]][[7月25日]]︶の生誕とする。</ref>? - [[応永]]31年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]︵[[1424年]][[9月7日]]︶?︶は、﹃[[浪合記]]﹄﹃[[信濃宮伝]]﹄などの[[軍記物|軍記]]に見える[[南朝 (日本)|南朝]]の[[皇族]]。それらの記すところによれば、[[後醍醐天皇]]の孫にして、[[中務卿]][[宗良親王]]の皇子であり、母は井伊道政の女<ref name="a">異説には、[[知久敦貞]]の女︵﹃[[南山巡狩録]]﹄︶や[[香坂高宗]]の妹・紀伊后︵[[大鹿村]]の伝承︶とする。また、この知久氏の女を親王の[[乳母]]とする系図もある。</ref>とされる︵﹃纂輯御系図﹄﹃浪合記﹄﹃井伊家系図﹄等︶。父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられるが、その内容の信憑性が極めて乏しいため、[[歴史学]]の立場からは創作上の人物とされている<ref name="#1">黒河内谷右衛門﹃宗良親王全集﹄︵甲陽書房、1988年︶</ref>。'''源尹良'''とも。
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== 実在性について |
== 実在性について == |
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尹良親王の名は信用すべき同時代史料に見えないばかりか、まとまった伝記である『[[浪合記]]』・『[[信濃宮伝]]』も内容に矛盾や時代錯誤が多く、[[近世]]前期成立の[[偽書]]と推定されていることから、学界では机上の創作とされている。 |
尹良親王の名は信用すべき同時代史料に見えないばかりか、まとまった伝記である『[[浪合記]]』・『[[信濃宮伝]]』も内容に矛盾や時代錯誤が多く、[[近世]]前期成立の[[偽書]]と推定されていることから、学界では机上の創作とされている。 |
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