嵐徳三郎 (7代目)
表示
七代目嵐徳三郎︵ななだいめ あらし とくさぶろう︶1933(昭和8)年12月20日~2000(平成12)年12月5日は上方の歌舞伎役者 本名横田一郎 屋号葉村屋 紋 三つ橘 九枚笹
香川県高松市生まれ会社員の父と結髪師の母とのあいだに生まれる。日本大学芸術学部に在学中、国劇研究会の公演で歌舞伎を演じた事が松竹会長の大谷竹次郎に認められ、学士俳優として大谷ひと江の名で1956︵昭和31)年4月中座﹃お夏清十郎﹄で初舞台。会長の苗字を芸名にするという破格の待遇であった。
おりしも関西歌舞伎は不振の極みにあったが、その中で有望な若手俳優としてめきめきと力をつけ1964年9月の仁左衛門歌舞伎公演で片岡孝夫︵現仁左衛門︶と共演した﹃女殺油地獄﹄のお吉で大阪府民劇場奨励賞を受賞。その後も十三代目片岡仁左衛門、二代目中村鴈治郎などの引き立てを受け東京の舞台にも出演するようになった。
1971(昭和46)年2月﹃法界坊﹄の野分姫で七代目嵐徳三郎を襲名。門閥外でないゆえに歌舞伎にとどまることなく様々な試みに果敢に挑戦した。1987(昭和62)年蜷川幸雄演出の﹃王女メデイア﹄に主演。国内は元より海外でも高く評価され徳三郎最大のヒットとなった。
役柄も女形から立役、色敵、花車役など幅広い役をこなし、上方色の濃い芸風で評価された。2000(平成12)年3月山口県の﹁ルネッサながと﹂の柿落とし公演での﹁﹃封印切﹄おえんに出演中体調を壊し2日目に休演。その後療養に努めたが12月5日急逝した。関西歌舞伎復興が軌道にのり、名門嵐璃寛の名跡を継ぐ人材として期待されていただけに、徳三郎の死亡は惜しみても余りあるものであった。
﹃仮名手本忠臣蔵﹄のお石、﹃本朝二十四孝﹄の越路、﹃伊勢音頭﹄の万野などが印象に残る舞台であった。